阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年9月13日
「一粒の麦」
ヨハネによる福音書12章20-26節

  9月第二週の礼拝をささげられることを感謝します。まだまだ新型コロナウイルスの感染は終わりません。尼崎市でもほとんど毎日陽性の方々が出ています。
安全なワクチンの開発や治療薬が開発されるよう、祈りつづけましょう。
教会ではマスク着用をお願いします。また出入りには手や指の消毒をしましょう。礼拝後は、必要不可欠の報告などをして、解散しましょう。気を緩めることなく感染拡大防止に努めましょう。
関西教区の教区会も先日初めてZoomで開催されました。残念なことに今月予定されていた関西教区聖会は中止となっています。
速やかにすべてが回復するように祈りましょう。
主イエスがエルサレムに入城された棕櫚の聖日の翌日、何人かのギリシャ人がフィリポのもとにやってきました。彼らは過越しの祭りを祝うためにやってきた人々でした。この祭りには、世界各地に在住しているユダヤ人たちが大勢エルサレムにやってきます。このギリシャ人たちのように、ユダヤ教に改宗したと思われる外国人も、大勢やってきました。
弟子のフィリポはユダヤ人でしたが、フィリポというギリシャ名を名乗っていました。そのようなこともあって、主イエスとの面会をフィリポに頼み込んだのかもしれません。
フィリポは、アンデレに話して、アンデレと一緒に主イエスのもとに行きました。
主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)とお答えになりました。
 栄光を受ける時とは、主がこの世に来られた目的である、全世界の贖いを完成させる時、十字架の時が来た時を意味します。
これまでは、カナの婚礼の席で、母マリアに、「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ)2:4)と語られ、また、神殿の宝物殿の近くで語られていた時も、だれもイエスを捕らえる者はいませんでした。「イエスの時がまだ来ていなかったからである」(ヨハネ8:20)とあります。
今、主イエスの時が来た、栄光を表す時が来たと言われたのです。
そして、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と教えておられます。
植物は何でもそうですが、種を蒔かなければ、収穫はありません。一粒の麦が地に落ちなければ、何も変化は起きず、一粒のままです。
主イエスは、神の国について、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(マルコ4:26−29)と教えておられます。
種を蒔くと、多くの収穫があり、種を蒔かずにおれば何の変化もありません。
ちなみにプランターに大麦の種を蒔いておくと、それほどの世話もいらずに成長するそうです。
主イエスは、全世界の贖いを成し遂げるために、一粒の種として死ななければならないことを語られたのです。
そして、「死ねば多くの実を結ぶ」と言われたように、主イエスの福音は、今や全世界に広がり、主を信じ受け入れる者はだれでも罪許され、永遠の命を持つ者とされました。
麦は地に落ちて死んだように見えても、その命は豊かな実となります。十字架で死なれ、墓に葬られた主イエスは、三日目によみがえられて、今。私たちと共に歩んでくださいます。私たちは、一粒の麦が地に落ちて死んでくださったことによる実です。
主イエスは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」(ヨハネ12:26)と、続けて言われました。また、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:25)と、教えておられます。
自分の命を愛する者は、それを失い、この世で自分の命を憎む人は、命を保ち、永遠の命に至ると言われています。愛すると、憎むという言葉が使われています。
自分の命を憎むとは、きびしい表現ですが、それは、自分について何も考えず、自分を抜け殻にすることではありません。命は神によって与えられたものですから、大切にしなければなりません。
「憎む」と言う言葉は、「疎(うと)んじる」と同じ言葉が使われています。それは、より少なく愛するというように理解できます。比べられない差の問題です。
主イエスに救われた者はどのように生きているのでしょうか。神を愛し、人を愛して生きていくことを求め続けます。
また、自分の命も、生活も、賜物もすべては神が委ねてくださっているものと考えます。きちんと管理していくべきものです。
神の栄光を表すために賢く用いていくべきものなのです。自分を喜ばせることを第一に考えることは、救われた者にとってふさわしいことではありません。この世のことに執着しすぎるのもふさわしいことではありません。
御言葉には、生きているときも、天に召されても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Uコリント5:9)とあります。
この地上がすべてではなく、やがてキリストの前に立つ時があるからです。
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたとき行ったことに応じて、報いを受けなければならないからです」。(Uコリント5:10)とあります。
私たちは、主の御心を求めながら、日々主の前にあって、与えられている命を喜びながら生活します。
この世のことのみに心を置いて生きるなら、やがて、命を失うと主イエスははっきりと言われました。
主イエスを愛し、自分の命はそれよりもより少なく愛する者は、それを保って永遠の命に至るのです。
私たちは、日々どのように主イエスに従っているのか考え、顧みなければなりません。
主イエスは、「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(ヨハネ12:26)と教えておられます。
自分の自我や欲で生きるのではなく、主イエスの模範に従い、主に仕える者を天の父は大切にしてくださるのです。
大切にするとは、その人を尊び、大事な者として常に受け入れてくださるということです。
私たちはこの世で、限られた命を生きている者です。しかし、キリストの十字架により罪を贖われ、永遠の命に生かされている者です。
この世の楽しみではなく、自分の欲に生きるのではなく、キリストとその御心を求めて生きていく者でありたいと思います。

「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(イザヤ55:2−3) 

糧にならないもののために心を使い、労するのではなく、魂を最良のもので満たして下さると、招いておられる主イエスのもとに行きましょう。
主の御言葉を聞き、悟り、信じましょう。いつも心を主イエスに向けて、その御顔を仰ぎましょう。
溢れるばかりの祝福と、恵み、命に満たして下さるお方を心からほめたたえましょう。


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