阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年9月20日
召天者合同記念礼拝
「豊かに実を結ぶ人生」
マタイ13章18-23節

 先に天に召された方々を記念して礼拝をささげられることを感謝致します。
今年は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、例年と少し違う方法で礼拝を進めてまいりたいと思います。
尼崎市でも残念なことに、コロナウイルスに感染された方々が毎日おられて、まだまだ終息には程遠いようです。
Go to トラベルや、Go to イートの実施、また劇場などの入場者数が緩和されれば、また感染者は増えることがわかっていても、経済と両立しなければならない現状のようです。冬になればインフルエンザの心配もあります。その中で私たちは、感染しない、感染させないために一層の注意をしながら生活してまいりたいと思います。
私たちは、この世に生を受けて、今日まで守られて生きてきました。感謝です。

詩編の中に、「私の生涯は移ろう影 草のように枯れていく」という御言葉があります。(詩編102:12)また、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(Tペトロ1:24、25)とあります。
人生の短さと、草のようにはかないものと表現しているのです。
短いからこそ、また一度しかない人生であるからこそ、大切にかけがえのない人生を生きていきたいと願います。
主イエスは大切な教えを、たびたびたとえ話でお教えになりました。
マタイ13章1節からは「種を蒔く人のたとえ」が記されています。
主イエスのもとに群衆が集まってきました。人々は岸辺に立ち、主イエスは小舟に乗られて湖に少し漕ぎ出されてお話を始めてくださいました。
種を蒔く人が種を蒔きました。当時の種まきの方法としては、大雑把にばらまく方法がとられていたようです。
ある種は、道端に落ちました。鳥が来てすぐに食べてしまいました。他の種は、石だらけで土の少ない所に落ちました。土が浅いのですぐに芽を出したのですが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいました。別の種は茨の間に落ちたので、茨が種をふさいでしまい、育ちませんでした。他の種は,良い地に落ちたので、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなったのです。
主イエスは、話しの最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:9)と言われました。別の福音書には大声で言われたとあります。
弟子たちは、なぜ主イエスがたとえ話で教えておられるのかわかりませんでした。
主イエスにお聞きすると、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないから」(マタイ13:13)、たとえで話すのだと言われました。そして、イザヤ書を引用なさいました。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」(マタイ13:14−15)これはイザヤ書6章の引用です。イザヤが預言者として遣わされる時に神がお語りになった言葉でした。
頑なな心を持ったユダヤ人たちは、主イエスの御言葉を聞いても決して悟らず、受け入れず、否定すると言われたのです。
主イエスは弟子たちに対して、「しかし、あなたがたの目は見えているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(マタイ13:16、17)と言われたのです。
主イエスが地上に来られて、新しい恵みの時代になりました。それは、主イエスを救い主として信じて、心に受け入れ、主イエスの十字架の贖いは自分自身の罪のためであったと信じるなら、だれでも救われる時代になったのです。信仰により、恵みによって救われる時がやってきたのです。
ですから、主イエスは、「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(マタイ13:17)と言われたのです。
主イエスご自身とその救いを目で見、耳で聞ける恵みの時代の到来です。
主イエスは、このたとえ話の意味を教えてくださいました。
蒔かれた種、それは「御国の言葉」、すなわち福音であり、主イエスの御言葉を聞いて悟らないと、すぐに悪い者が来て心の中に蒔かれた種を奪い取ってしまう。道端に蒔かれたとはこのような人のことである。石だらけのところに蒔かれたとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは続いても信仰の試練や迫害が起こると、すぐに躓いてしまう人である。茨の中に蒔かれたとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑に負けてしまい、実が実らない人である。ちょうど、茨が覆いかぶさってしまうような状態を言われたのです。
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、そのような人は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと教えてくださいました。
 小さな種には命があります。その命は、どのような土壌に蒔かれたかで大きく結果が違うのです。
種の落ちた土地とは、それぞれ人の心の状態を表します。ユダヤ人たちは、旧約聖書の時代から、メシア、すなわち救い主が来られることを待ち望んでいました。ところが、救い主である主イエスが来臨されると、決して信じて受け入れようとはしませんでした。ですから、主イエスはこの民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまったと言われたのです。
主イエスがこの世に来られた目的は、すべての人が救われて永遠の命を持つためでした。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とあるように、人の罪の身代わりとして十字架に架り、死んで三日目によみがえってくださった。だれでもこの主イエスの十字架と死、復活を信じる者は救われる。これが福音です。
だれもが、この世の中で一生懸命生きていきます。そして、成功をおさめ、良い生活をしていきたいと願います。それがかなえられたとしても、主イエスが教えてくださる多くの実を結ぶ人生とはいえません。なぜなら、この世のことだけで終わるからです。
豊かな実を結ぶ人生とは、天国に希望を置く人生です。いつも主イエスにより頼み、主イエスの祝福と命に満たされる人生です。
主イエスの命の実を実らせながら、天の喜びに満たされる人生です。
今年は教会も、思いもしなかったコロナウイルス感染危機の問題で、さまざまなことに自粛が続いています。
皆さんのお仕事や生活にも支障があるのではないでしょうか。一体いつまでこれが続くのかと、心に暗い雲がわくような思いがするかもしれません。
しかし、御言葉の種は生きています。真理の種です。主イエスとその御言葉は、必ず勝利することを約束してくださいます。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(Uコリント4:17)見えないけれども永遠に存続する主イエスの祝福と命の中に生きるのです。
先に天に召された愛する方々も、このような信仰に生き、そして、今や主イエスと共に永遠の命を喜び、安んじていることを感謝し、また、それが私たちの喜びとなります。
御言葉を聞いて悟る人は、「持っている人」であり、さらに多く与えられて豊かになります。「持っていない人」、聞こうともしない人は、持っているものまで取り上げられる、何も持たないような人になってしまうという主イエスの御言葉を厳粛に聞きたいと思います。
私たちはどのような人生を歩んでいるでしょうか。主イエスを心に受け入れて、命の種、御言葉に生かされ、真の豊かな祝福の実を実らせる人生を歩み、百倍、六十倍、三十倍と、多くの救いの実を実らせる人生となるように祈り続けましょう。


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