阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年9月27日
「後にいる者が先に」
マタイによる福音書20章10-16節

 9月最後の礼拝を共におささげすることを心より感謝します。
主イエスを救い主として信じた者は、主の十字架により罪が許され、永遠の命をいただくことができました。
この世にある時も、召されてからも永遠の命に生かされています。
神の御言葉を喜び、その御言葉によって養われ、神の栄光のために生かされていることを感謝します。
また、主の日ごとに教会に集まり、礼拝がささげられていることをも深く感謝します。なぜなら、日曜礼拝は、私たちの信仰と生活の中心であるからです。
コロナウイルス拡大防止のために、YouTubeでの礼拝もささげることできますが、教会に集まって心を合わせ、一つとなって礼拝できることはなにより素晴らしいことです。
 先週は、召天者合同記念礼拝をささげることができました。天に召された兄姉の信仰を思い返しながら、豊かな実りのある人生について御言葉を聞きました。
私たちの生涯が実り多いものであるよう、さらに主イエスの教えに耳を傾けたいと思います。
主イエスはたとえ話で天の国についてお教えになりました。今日のテキストも、「天の国は次のようにたとえられる」(マタイ20:1)という御言葉で始まっています。
主イエスはこのたとえ話をいつどのような場面でなさったのでしょうか。一人の青年が主イエスに近づいてきて、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と聞いたことから始まっています。
主はこの青年に律法を守ることを示されます。「殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」
(マタイ19:18−19)。
この教えは十戒の、人に対する教えですが、それらの事はみな守ってきたと言っているのです。そして、「まだなにか欠けているでしょうか」と聞いたところ、主は「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタイ19:21)と教えられました。この青年は悲しみながら帰っていきました。たくさんの財産を持っていたからです。
この青年は、律法をよく知っていて、自分では守ってきたと思っていました。しかし、その心のよりどころは主イエスではなく、自分の財産にありました。主は、本当に永遠の命を求め、主イエスを求めるなら、財産に心を置くのではなく、心を主イエスに明け渡して、それからでなければ、従っていくことはできないと、教えたのです。
彼は、主イエスの真意は理解できませんでした。ですから、悲しみながら去って行ったのです。
この青年は、自分では「先にいる者」だと思っていたのです。
主イエスは、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイ19:29)と教えておられます。
この御言葉も、主イエスに心をささげ、明け渡すことを教えておられるのです。いつも主イエスを仰ぎ、自分は神の国の民であることを覚えながら、この世にあることを考えていかなければなりません。
ぶどう園で働く人々のたとえです。ある家の主人がぶどう園ではたらく人々を雇うために夜明けに出かけていきました。一日一デナリオンの約束で働いてもらうことにしました。9時ころにいってみると何もしないで広場に立っている人々がいました。ふさわしい賃金を払うという約束でぶどう園に送りました」。12時ころと、3時ころにもおなじようにしました。5時ころに行くと、まだ立っている人々がいました。「なぜ、何もしないで、一日中ここにいるのか」と聞くと、「誰も雇ってくれないのです」という返事でした。そこで、彼らもぶどう園に送りました。
夕方になり、一日の賃金を払うことになりました。主人は、5時に来た人から順に一デナリオンずつ支払うよう、ぶどう園の監督に命じました。朝9時から働いた人々は、遅く来た人が一デナリオンだから、自分たちはもっともらえるだろうと考えました。ところが、同じように一デナリオンでした。それで、自分たちは朝から暑い中辛抱して一日中働いたのに、遅くきて少ししか働いていない人たちと同じだけしかもらえないのかと不平を言いました。
主人は、不平をいった一人の人に、「友よ」と呼びかけました。「あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」といったのです。
そして、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)と続けました。
 この世の常識で考えたら、主人のしたことは不公平であって、朝早くから働いた人々の訴えはもっともだと考えることができます。
この話は、「天の国」についてのたとえであることに注目したいと思います。天の国を教えるための話です。
神の恵みは、働きの大小、時間の長さ、働きに応じての報酬ではないのです。一方的な恵みです。
先に登場した富裕な青年は、律法を守り、神の前に立派な行いをしているから、「あなたは素晴らしい、これ以上なすべきことはありません」と、称賛を受けられるのではないかと主のもとに来たのかもしれません。自分は義人だ、神の国に先に入れる人だと思っていたのかもしれません。
9時からぶどう園で働いた人は、多く報酬を受けられる、自分はその資格があると思いました。なぜ12時からの人も3時からの人も5時からの人も同じなのか理解できませんでした。主人(神)の恵みの原則を知らなかったのです。
この話は、主が自分は正しい人だと思っている人に向けて語られたと考えられます。ファリサイ派の人々は、律法を守り、自分は義人だと自認していました。律法を知らず、守れない者たちは天国には入れないと考えていたのです。
主イエスはどのようになさり、教えておられたでしょうか。主の弟子として召されたのは、ガリラヤの漁師であった人たちが多いのです。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちです。後に彼らはサンヘドリンの議員たちに「無学な普通の人」(使徒4:13)と呼ばれたのです。
マタイは、罪人とされていた収税人でした。人々から憎まれ遠ざけられてしまう人だったのです。世の考えでは「後にいる者」だと言えます。
神の国と世の価値観、考え方は全く違うことを覚えたいのです。
何かできるから、力があるから、何か知っているから、そのようなことで天の国に入れるのではありません。
ただ一方的な神の愛と恵みは条件なしにだれにでも注がれます。
私たちは、それぞれが主イエスの招きに応じて神のぶどう園に招かれました。それぞれの時にです。ある人は早くから、ある人は遅くなってから、皆違います。
それに応じて神は報酬を支払われるのではありません。報酬と恵みについて、ローマの信徒への手紙4章4,5節に「いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とする方を信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ローマ4:4,5口語)とあります。
ぶどう園の主人は恩恵、恵みとして等しく一デナリを与えたのです。
救いから遠く、天の国からも遠く、罪の中に喘いでいた者を、主イエスは十字架で贖い、赦し、救って下さいました。
そして、何も持たないような者を整えて、主の御用に召して下さったのです。主イエスのために用いられることはどのようなことであっても、最高に素晴らしいのです。
用いられる時が長くても、短くても力を尽くして主のために奉仕するときに、主イエスが「先に行く人」として認めてくださるのです。
わたしたちの信仰、生活、すべてに主イエスの導きと恵みに満たされていることを改めて感謝したいと思います。


 ページのトップへ
  
2020年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ