阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年10月4日
「父の心に沿う」
マタイによる福音書21章28-32節

 日々主に守られて、今日も礼拝がささげられることを心より感謝します。まだまだコロナウイルスの感染拡大は終息しません。先週は、アメリカのトランプ大統領夫妻がコロナに感染したというニュースが駆け巡りました。誰にも感染の恐れがあることが教えられています。いっそう気を引き締めて生きていかなければなりません。
そのような中にも主の導きの手は確かにあり、励ましと力をくださっていることを喜びとしたいと思います。
今日も主イエスがお語り下さったたとえ話から真理に耳を傾けましょう。このたとえ話は、とてもシンプルでわかりやすいお話です。
ある人に息子が二人いました。この人はぶどう園を持っていたようです。イスラエルでは、ぶどうはオリーブなどと共に祝福の象徴です。
お父さんは兄息子に、「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい」(マタイ21:28)と、言いました。この息子は、お父さんに「いやです」と答えました。ところが、後で考え直してぶどう園に行きました。
お父さんは、弟息子の所へも行って、兄息子と同じことを言いました。「ぶどう園へ行って働きなさい」と言ったのです。弟息子は、「お父さん、承知しました」(マタイ21:30)と答えましたが、ぶどう園には行きませんでした。
主イエスは、この二人のうち、どちらが父親の望みどうりにしたか」(マタイ21:31)とお聞きになりました。
この話は、主イエスが神殿の境内で教えておられる時、祭司長や長老たちが主のもとに近づいて来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイ21:23)と詰め寄ってきたときに話されました。
彼らは、神殿の中で教えている主イエスに不快を覚え、何とか排除したかったのです。
彼らは、自分たちこそ神の国に近い者であり、権威を持ち、敬虔な者たちであると信じていました。主イエスをメシアであるとは、決して認めようとはしませんでした。
主イエスは彼らに、バプテスマのヨハネの権威は天からのものか、人からのものかと、質問されました。天からのものと言えば、なぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう、人からのものと言えば、民衆が承知しない。だから、「分からない」と答えました。すると、主イエスは、彼らに、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」(マタイ21:27)とお答えになりました。
そして、「ところで、あなたたちはどう思うか」と言われて、このたとえ話を語り始めておられます。
二人の息子の内、どちらがお父さんの心に沿ったのでしょうか。お父さんはぶどう園で働いてほしかったのです。
兄息子の返事は良いものではありませんでした。弟息子は即座に承知しました。
二人ともぶどう園には行きたくなかったのです。兄は、お父さんに「いやです」と答えましたが、「後で考え直した」とあります。
考え直してぶどう園に行きました。心を変えたのです。弟は、お父さんに言われた時に、「承知しました」と答えて、本当は行こうとしたのか、あるいはごまかしたのかわかりませんが、結局は行くことはありませんでした。
主イエスは、すべての人々に神の国を教えておられます。すべての人が救われて永遠の命を得るようにと教えておられます。
ぶどう園は、天の御国をあらわします。父は、ぶどう園に行きなさいと、言われるのです。神の国に入りなさいと、語っておられます。
多くの人は、世の事、生活の事、目に見える事、自分の関心事で、心をいっぱいにしているので、神の国に興味を持とうとしません。本当は一番大切で、一番求めなければならないすばらしい祝福も、永遠の命にも心を寄せようとはしません。
ちょうど、一杯の羹で、永遠の祝福、長子の特権を弟ヤコブに渡してしまったエソウのような心です。
お父さんのぶどう園に招かれて、「承知しました」と答えて、無視してしまう心を持っているのが人です。
兄息子は、「いやです」と言いました。しかし、思い直したのです。これも、私たち人の姿ではないでしょうか。
思い直したとは、「心の向きを変えた」、悔い改めることができたと考えられます。
人は、心に罪を持つ者です。自己中心です。自分の利益や、自分の願いが満たされることのみを求めます。神を愛し、人を愛すことを教えられてもできないような者です。
ユダヤの学者たち、宗教指導者たちはイエスを決して認めようとはしませんでした。信じることもありませんでした。それは、すべての人に共通する罪と考えられます。
天の父が差し出された救いの御手を払いのけ、拒絶してしまうのが人間です。
天の父の計り知れない大きな愛の内におられることは、幸いです。
神の御声にいつも耳を傾け、その意味を理解し、従って歩むこと、それが大きな祝福になります。時にはその時に理解できないようなことがあっても、静かに神を待ち望み、神のなさることを見ることができるのです。
「いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられあなたの庭に宿る人は。恵み溢れるあなたの家、聖なる神殿によってわたしが満ち足りますように。」(詩編65:5)には、神の国、大庭にある幸いを歌っています。
人は、神に創造された霊的な存在です。罪の中にあっても、真の神を知りたい、救いにあずかりたいという思いはあるのです。神を拒絶するような者であっても、なお救いについて考え、求めます。
私たちもかつてはそのような者でしたが、悔い改めの機会が与えられて、主イエスの救いをいただくことができました。神のぶどう園に入れていただいたのです。
天の父の願いは、だれでも主イエスの十字架を通って、神のぶどう園に入ることです。救われて永遠の命を得ることです。
そのためには、福音が伝えられなくてはなりません。今多くの人はどのような状況でしょうか。
主イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になりました。飼う者のいない羊は生きることができません。表面的には元気でいても、その心の中には多くの悩みを抱えている人は大勢います。心が弱り果てて生きていけなくなる人がいるのです。
私たちには、力はありません。しかし福音を伝えることができます。全能の神がおられます。この方には人を救う力があり、すべての答えであるお方なのです。
まず、私たちは常に自分の心を見張ることが必要です。主イエスを心の王座にお迎えしていることを確認します。もし、み旨に沿わないことがあるなら、直ちに悔い改めます。聖い御霊を求め続けます。
神の前に謙遜と従順を求めるなら、内におられる聖霊は力を与え、日々造り変えてくださいます。栄光から栄光へと主と同じすがたに変えてくださるのです。
天の父の「ぶどう園に行きなさい」という御言葉に、はっきりしない、大変申し訳ない応答しかできなかった者をも、十字架で贖い、今日まで導き続けてくださった愛と恵みを感謝します。
主イエスは、徴税人や娼婦たちは、ヨハネによって悔い改め、神を信じた。彼らは先に天に入ると言われたのです。
自分を義とする者たちは、信じようともせず、悔い改めることもなかった。
悔い改める機会が与えられている今、主イエスを改めて心の中心にお迎えしたいと思います。先の者は後に、後の者は先になるという主イエスのお言葉を思い返しながら、改めて永遠の救いを感謝したいと思います。


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