阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年10月11日
「この地で生きる」
マタイによる福音書5章13-16節

 10月第二週の礼拝をささげられて、心より感謝します。すっかり季節が変わり、だいぶ気温が下がりました。体調を崩さないように気を付けたいと思います。コロナウイルスやインフルエンザの感染から守られるように祈りましょう。
主イエスを救い主と信じて、その十字架によって罪の贖いを受けた者は、神の子とされ、永遠の命の中に生かされています。
神の子が、この世に生きる上での教えは、聖書に教えられています。
主イエスは、「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と言われました。山の上で群衆を教えられたので、「山上の説教」といわれる教えの一つです。山上の説教は、主イエスを信じる者にとって、大切で必要な教えが凝縮しています。
主イエスは、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)と言われました。
塩は、海水を煮詰めたりして作ります。赤穂では弥生時代から塩を作っていたようです。現在は塩造り体験などができるようです。
イスラエルでも死海の塩は有名ですが、主イエスがお話になったこの塩は、岩塩を指しているようです。
アブラハムの甥、ロトの妻はソドムからの脱出の際、後ろを振り向いてはいけないと命令されていたにもかかわらず、振り向いてしまい、塩の柱になってしまいました。(参考創世記19:26)
ソドム近辺には、岩塩の層が地上に出ていて、岩塩の供給地でしたが、品質が悪く、不純物がたくさん含まれていて、塩気が無くなっていたものもあったのです。それらは、肥料にもならず、捨てるより仕方なく、塩としての価値はありませんでした。
主イエスの話を聞いた人々は、そのようなことを思い返しながら聞いていたのでしょう。
塩は、人に毎日必要です。現在は健康維持のため、塩分を取りすぎないようにと教えられていますが、まったく塩分がなければ生きることはできません。
高血圧の人でも、一日6グラム相当の塩分は必要なのだそうです。世界的には5グラムという数字がでています。
塩の効能はいろいろあります。食べるものの味付けに必要です。ヨブ記に興味深い御言葉があります。
「味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか」(ヨブ6:6)という御言葉です。文字通りにとれば、塩気のない物は食べられないということですが、ヨブが、意味の分からない苦しみには、耐えることができないということを言っているのです。
玉子に少量の塩があると、おいしく食べられるのです。
また、塩は食料の腐敗を防ぎ、保存することができます。
塩は人々の生活になくてならないものです。
主イエスは、「あなたがたは地の塩である」と言われました。「あなたがたは地の塩になりなさい」と言われたのでも、「あなたがたをこれから地の塩にしよう」と言われたのでもありません。最初から、「あなたがたは地の塩である」と宣言されたのです。
これはどういうことなのでしょうか。
地とは、言うまでもなくこの世の中のことです。この世の中で地の塩として生きることを教えておられます。
それは、次に言われた「あなたがたは世の光である」も同じです。
世の光になりなさいでもなく、世の光にしてあげようでもないのです。
今、私たちは夜の間も昼と同じように生活することができます。電力が安定して供給されているので、めったに停電はありません。一昨年の台風で、2日間停電した時は、暑い時でしたので大変でした。同じ町内でも、4日も5日も復旧しなかった家もありました。でも、めったにないことなのです。真っ暗闇はなかなか体験できません。
しかし、人々の心の中はどうなのでしょうか。暗闇に閉ざされている人は多いのです。人には言えない悩みを抱えて苦しみ、出口が見つからなくて苦しむ人がたくさんいます。
詩編130編では、深い悩みと苦しみを「深い淵の底」と表現しています。底なし沼のようなところから誰が這い上がることができるでしょうか。そのまま沈み、死に至ってしまうのです。
しかし、御言葉は命の希望に満たします。そこに、救い主を見出したのです。救い主に向かって声を上げます。「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:2)
これは、「イエス様、助けてください」という叫びです。主イエスのもとに叫びは届き、罪の赦しと救いの御手が差し出されます。
暗闇の中から、光の中へと導き出されるのです。
苦しむ人、悲しむ人、悩みの中にあって、絶望している人、世にはそのような人々が大勢います。
根本的な真の救いがあります。人を造り変え、人生を変えてくださるお方がおられます。人の罪を贖うために世に来られた救い主です。この方は、ご自分のことを、「世の光」と紹介されました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と宣言されました。
主イエスを心に受け入れ、信じ、従う者は、主イエスの命の光を持つ者となるのです。その人は、いつも光を持つので、暗闇の中を歩くことはありません。
ユダヤでは、ともし火皿の中に油を注ぎ、芯が立てられ明かりとして使いました。あまり明るくはありません。しかし、このともし火皿をマスの中に置いたら、明かりとしての役目は果たすことができません。明かりは燭台の上に置きます。
主イエスは、人々に、塩は塩の役割をし、光は光の役割をするということを教えられたのです。
主イエスが地の塩にしてくださったのに、いつのまにか塩の味が抜けてしまっていたら大変です。光は燭台の上で明かりの役割をするべきなのに、いつの間にかマスの下に置いたら、何の役にも立ちません。
主イエスの十字架によって、罪を許され、永遠の命をいただき、地の塩、世の光とされている私たちは、どのような信仰生活を送っているでしょうか。世の光として、光を掲げているのでしょうか。塩の役割を果たしているでしょうか。
主イエスは、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)と勧めておられます。
それは、主イエスが救い主であることをいつも証ししていくことです。
地の塩として、主イエスを証ししていくことです。
自分の力で世の光、地の塩になるのではありません。主イエスを信じて心に受け入れた時から、地の塩、世の光にしていただいたのです。
小さな光でも闇が勝つことはありません。闇の中にいて苦しむ人々を主イエスに導くことができます。小さな者であっても、塩の味のきいたやさしい言葉で主イエスを証しできます。
聖霊に満たされ、この世にあっても、真の光である主イエスに従う者としての証しをし続けていく時、神の御業はあらわされるのです。
「人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」(マタイ5:16)と、地の塩、世の光であることの理由が教えられています。
立派な行いとは、どのような時も、世と妥協することなく、主イエスを信じる者としての姿勢を貫くことです。御言葉に従い続けることです。
主イエスこそ救い主であることを伝え続けることです。
多くの人が真の神として天の父の栄光をほめたたえる時が備えられていることを覚えながら、地の塩、世の光として歩み続けて参りましょう。


 ページのトップへ
  
2020年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ