阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年10月18日
「主の報いがある」
マタイによる福音書10章40-42節

 この主の日の朝も、私たちの生活と信仰の根幹である礼拝をささげられることを心より感謝します。
礼拝は、自分自身を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げることですが、献げることによって魂には新しい命と希望があふれます。
そして、命の糧である御言葉をしっかりと心に受け入れ、魂が養われていくこともすばらしい恵みです。
主イエスによって罪許されて、永遠の命をいただいた者は、主の栄光を表すというすばらしい人生の目的が与えられています。
また、私たちは、神の国の民であり、この地に派遣されて、それぞれが賜物と力をいただいて、主イエスを伝えていきます。
マタイによる福音書10章は、主イエスが12弟子を選ばれて、派遣される所から始められています。
主イエスは、弟子たちが町々村々を巡り、宣教する上で、必要な大切な教えをなさいました。
まず、イスラエルに宣教すること、何も持たずに出かけ、一つの町に入ったら、その町でふさわしいと思われる人の家に滞在して平和を祈ること。平和がその家にふさわしいのであれば、その家に平和がとどまり、ふさわしくなければあなたたちに返って来る。弟子たちを迎えようともせず、その教えに耳を傾けない者があれば、その家や町を出ていく時に、足の埃(ほこり)を払い落とすこと。その町は残念な事に、ソドムやゴモラよりも重い罰があること。迫害があること。議会に引き出されても聖霊が言葉を与えてくれること。人々を恐れる必要はないこと。あなたがたは髪の毛までも一本残らず数えられているのだから、神をのみ恐れて大声で、神の国を伝える事。
イエスの弟子であることを公に表すこと。自分の十字架を担って従って来る事、様々なことを教えておられます。
弟子たちを派遣することは、狼の群れに羊を送り込むようなものとも言われています。だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になるように」と、示されました。
これらの主の教えの一つ一つは、私たち自身に対する教えです。なぜなら、私たちも神の国を証しするという大切な使命をいただいているからです。
天の神の御心は、すべての人が救われて、永遠の命を得ることです。宣べ伝えることがなければ救いの業はおこりません。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができようか。」(ローマ10:14)とあるように、聞いたことのない方を、信じたことのない方をどうして信じることができるだろうか。宣教してくれる人がいなければ福音を聞くことはできないとあるのです。
人は福音を聞いて、信じて救われます。福音は人から人へと伝わります。そのために私たちは先に救われたことをもう一度覚えたいのです。
主イエスは、弟子を派遣される際の最後に、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40−42)と、お教えになりました。この場合の預言者とは、神の言葉、福音を伝えるすべての人と考えることができます。
「受け入れる」という言葉は、「歓迎する」と訳すことができる言葉です。福音を伝える人と、福音を歓迎するということです。
福音を伝える人を歓迎するということは、救い主である主イエスを歓迎することであり、主イエスを歓迎する者は、この方を遣わされた天の父を歓迎するという意味です。
主イエスの弟子たちは、「この小さな者の一人」と呼ばれるような者たちにすぎませんでした。この世の身分も、権力も、財産も何も持ち合わせていませんでした。人からの称賛に値するような人たちでもなく、全く無名な人たちでした。漁師出身の弟子が多かったので、多くを学んでもいませんでした。
しかし、遣わされて行くことにより、福音を聞き、主イエスを受け入れる人が必ずいたのです。
日本では1549年、ザビエルによって宣教が始まりましたが、徳川家康の禁教令から明治6年に明治政府の廃止例が出されるまで、260年あまりキリスト教は禁教とされていました。キリシタンは激しく迫害されましたが、その信仰は隠れていても脈々と受け継がれていたのです。
福音が伝えられたからです。福音の種が蒔かれたからです。
時代が移り、幕末から明治にかけて、プロテスタントの宣教師が多く来日し、ヨハネによる福音書が1837年に日本語に翻訳されたのです。
伝える人がなければ聞くことができません。聞くことがなければ救われないのです。
私たちも、それぞれの時に誰かが主イエスを伝えていくという、バトンが繋がれて、救い主を受け入れ永遠の命に導かれました。
主イエスは、弟子たちに「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10:42)と言われました。
弟子たちは、遠い道を歩き、町々、村々に遣わされていきます。のどが渇き、疲れることがあるのです。その時、冷たい水を差しだす人がいたら、なんと幸いなことでしょう。
汲み置いた水は、いつまでも冷たいわけではありません。すぐに生ぬるくなってしまいます。わざわざ井戸から汲みあげなければ水は冷たくないのです。
主イエスは、サマリアのシカルという町のヤコブの井戸で、サマリアの婦人に「水を飲ませてください」と話しかけて、この婦人にご自分が永遠の命の水を与える方であることを証しされました。
この婦人は、「この井戸は深く、あなたは汲む物をもっておられません。どこから生きた水を手に入れるのですか」と聞きました。主イエスは永遠の命について語られたのですが、婦人は普通の水の事だと思ったのです。
深い井戸から水を汲むのは大変な力と時間がいるのです。ですから、一杯の冷たい水を差しだそうとする行為は、愛と犠牲がなければできない事なのです。
主イエスの弟子、主イエスに仕える者、主イエスの御言葉に従う者であるからという理由で、自分の労力、時間、心遣い、財、さまざまなことで愛の犠牲を払うことは、尊いことです。
天の父は決して見逃すことなく、報いてくださるお方です。
私たちも、ある時は、水を差しだす者であり、ある時は水を差しだされる者であると考えることができます。
主イエスは小さな者にしたのは、私にしたのだと言われます。
気が付かないままであっても、主イエスのために愛の犠牲を払った者は、報いから漏れることはありません。
主イエスのすばらしい報いとは一体どのような報いでしょうか。それは、天の報いです。
主イエスの十字架の贖いを受けて、必ず救われ、永遠の命の中に生かされるという、最善の報いに預かれるのです。
永遠の救いの尊さを知る者でありたいと思います。永遠の救いを告げ知らせるために、私たちも主イエスによって遣わされています。
あなたの家庭に、職場に、学び舎に、地域に遣わされているのです。
新型コロナウイルス感染拡大防止とうことで、以前のように広く移動することや、人との接触がしにくくなっています。依然として感染は無くなっていません。しかし、主の福音は私たちを通して前進し続けます。顔と顔を合わせられなくても、電話やメール、その他の方法で主イエスは救い主であることを伝えることができます。一杯の冷たい水を差しだせるよう、祈りつつ、主の知恵をいただいて、救いのために口を、手を、足をこれからも用いていただきましょう。


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