阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年11月1日
「愛の律法」
 マタイによる福音書12章1−8節

 11月最初の主の日に礼拝をささげられることを感謝します。
主イエスは常に共におられて豊かな恵みを備えていてくださいます。
今日も心を合わせて賛美をささげましょう。
ある安息日に、主イエスと弟子たちが麦畑を通りました。弟子たちは空腹でしたので、麦の穂を摘んで食べ始めました。この時代でも生の麦を食べることはありませんでしたから、よほどお腹がすいていたと思われます。
主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と、言われています。町々、村々を巡られ人々を教え、癒される主は、休むところもなく働いておられました。その主イエスに従う弟子たちもまた、食事をする間もなく、また、食料もないような時もあって、空腹を覚えたのでしょう。
サマリヤのシカルの町のヤコブの井戸では、イエスは旅の疲れを覚えて座っておられました。弟子たちは食べ物を買いに町に行っていたとあります。(参考ヨハネ4:6、8)このように、時間ごとに食事をとれないことの方が多かったと思われます。
弟子たちは麦畑で麦の穂を摘んで食べ始めました。他人の麦畑です。
旧約聖書の教えでは、人の畑で、鎌で収穫するのではなく、手で穂を摘んでも良いことが教えられていました。
「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」
(申命記23:25、26)とあります。ぶどうを籠に入れて持って帰ったり、鎌を使って麦を刈り取ることは、人の作物を盗むことになってしまいますが、貧しい人が空腹を満たすことは許されていたのです。
畑の持ち主には、自分が苦労して育てた作物でも、貧しい人に施すことを教え、貧しい人には恵みにあずかれることを教えました。
ですから、弟子たちも麦の穂を摘んで食べたのです。
ところが、ファリサイ派の人々がこれを見ていました。主イエスに「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言いました。
ファリサイ派の人々は、弟子たちが麦の穂を食べたことを非難しているのではなく、安息日に麦の穂を摘んではいけない、それは収穫や脱穀相当する働きになると言いたかったのです。
安息日については、モーセの十戒の4番目に教えられています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト20:8−11)と教えられています。
「いかなる仕事もしてはならない」とあることから、ファリサイ派は、してはならないことについて強調して細かく規則を決めてしまいました。
現代でも、イスラエルではホテルなどに、各階に止まる安息日用のエレベーターがあり、土曜日には、各階にエレベーターで行くためのボタンを押すことは労働であると、禁止されています。
ファリサイ派にとって主イエスの安息日に対する考え方は許し難いものでした。主は安息日に片手の萎えた人を癒し、非難されました。
人々が、イエスを陥れようとして、安息日に病気を治すのは律法で許されているかと聞きました。主イエスは「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12:10−12)と言われて、「手を伸ばしなさい」と、その人を癒したのです。
このことで、ファリサイ派は怒り、主イエスの殺害を相談しました。
ファリサイ派が教えていたように、安息日は何もしてはいけない日なのでしょうか。
主イエスは安息日について正しい教えをなさいました。
安息日について申命記では、出エジプト20章と同じ教えの後半で、「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記5:14、15)と教えています」。
エジプトで、奴隷として呻き苦しむ中から救い出されたことを忘れないためであることを教えています。
また、主イエスは、ダビデの例をあげて教えておられます。
ダビデがサウルから逃れて逃亡生活の苦しさにあったとき、祭司アヒメレクのもとに行って、パンを求めました。アヒメレクは、普通のパンがなかったので、祭司しか食べることのできない聖別されたパンを与えました。
この供えのパンは一週間に一度、安息日に新しいパンに変えました。ダビデは安息日にパンをもらったのです。
また、主イエスは、祭司は安息日には、普段よりも多くの仕事があることを指摘されました。犠牲の動物をささげ、人々のために執り成しました。
主イエスはこのように例をあげてファリサイ派を論破されました。
そして、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というホセア書を引用されたのです。
「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく 神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)
安息日を守るのは、様々なことを禁止して不便と不自由にすることではなく、休むことで魂と体に安息を与えるためであることを、主イエスは教えられているのです。
また、かつては罪の奴隷として滅びに向かっていた者を贖いだし、罪から解放して自由にしてくださったことを思い起こすためであることを知らなければなりません。
主イエスがこの世にお生まれになり、新しい恵みの時代を迎えました。新しい約束の時代です。すべての者の罪を背負われて十字架に架り、信じる者には罪の赦しと永遠の命を与えてくださいました。
信仰により、恵みによる救いの時代です。
主イエスの復活を記念して、信者は日曜日に集まり、主の日としました。主の日に教会に集まり、主の復活を記念し、感謝と賛美をささげます。自分を神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてささげるのです。新しい恵みと力をいただきます。
神が定められた律法の精神はどのようなことなのでしょうか。ただ表面的に、形式的に従うことではありません。
主イエスがお教えになったように、律法は「神の憐れみ」、神の愛の土台があって、初めて生かされます。
安息日だから苦しんでいる人がいても、何もしてはいけないというのは神の御心ではありません。主イエスはそれを指摘されました。
新約の時代の戒めは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、』そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13:8−10)
神の愛という土台の上に信仰を打ち立て、神の愛に根差して受け入れ合っていくことこそ、主イエスが教えておられることです。
主イエスは安息日の主です。ファリサイ派がよりどころとし、誇りに思っていた神殿よりも偉大な者であると、ご自分で証しされています。
罪の中から贖いだして下さった愛と恵みをいつも思い起こし、「神の愛」に根差して生きること、愛の律法によって進みましょう。


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