阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年11月8日
「罪に定めない」
ヨハネによる福音書8章1-11節

 主イエスの恵みの中に生かされていることを感謝します。主イエスの見えざる御手によっていつも導かれていることをほめたたえます。
主イエスの十字架により、罪が許され、永遠の命をいただいたことを心より感謝します。
聖書は、「正しい者はいない。一人もいない。(ローマ3:10)と教えています。神の前に罪のない者は一人もいないということです。
誰でも罪を持って生まれながら、罪の自覚さえないまま生きていきます。
真の神との正しい関係を持つこともできないまま、滅びの道に進むのが人の姿です。
しかし、神はその独り子をこの世にお遣わしになって、人の罪を贖うために十字架に架けてくださいました。罪の身代わりとしての十字架です。
イエス・キリストを救い主として心に信じ、告白する者はだれでも救われる素晴らしい愛が示されました。
主イエスが神殿で教えておられた時、一人の婦人が律法学者やファリサイ派の人々に連れてこられました。その婦人は姦淫という罪の現場を押さえられて連れてこられたのです。
いつものパターンですが、律法学者たちは、主イエスを訴える口実が欲しかったのです。
彼らは、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ8:5)と質問しました。
律法で姦淫の罪は石打の刑と決められているので、主イエスが「律法の通りに」と言えば、いつも教えている愛と赦しの教えと違うと、人々が主イエスから離れていくであろう。また、「赦しなさい」と言えば、律法を無視することになる。どちらにしても主イエスを窮地に立たせることができると考えたのです。
主イエスは何も答えず、かがみこんで地面に何か書き始められました。
何もお答えにならないので、答えに窮していると考えて、何度も問いかけ続けました。
すると、主イエスは立ち上がって、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われてまた屈みこんで地面に何かを書き続けておられました。
すると、年長者から始まって、一人、また一人と去って行き、主イエスとこの婦人だけが残されたのです。
イエスはまた身を起こされて婦人に、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)と、お聞きになりました。「主よ、だれも」とお答えすると、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない」(ヨハネ8:11)と御言葉をかけてくださいました。
私たちは、この個所から罪と赦しについて教えていただくことができます。
ファリサイ派と、律法学者たちは、主イエスを試して陥れようとしました。そのためにこの婦人を連れてきたのです。自覚のない罪です。
自分たちは正しいことをしていると考える高慢と、自己義です。
群衆は、引き出されてきた婦人と、主イエスと、ファリサイ派との展開を傍観していました。
また、この婦人の相手の男性は引き出されていません。罪に定められるのは同じです。
もちろんこの当事者である婦人は罪を犯しました。それぞれに罪があります。
主イエスは、心の中の罪、(Sin)を指摘されます。人は、主イエスを信じて、御言葉に教えられるまで、罪とは犯罪を犯すこと(Crime)、表にあらわれる罪のことだと思っています。
心の中でどのようなひどいことを考えたとしても、表面にだすことなく、行動を起こさなければ罪ではないという考えです。例えば、人を憎み、殺してしまいたいと思っても、それが心にあるだけで実行することはないのなら罪ではないという考え方です。
別に悪いことはしていないから自分は義人だと考えるのは、違うと聖書は教えています。
主イエスは、「人から出てくるものこそ、人を汚す」。(マルコ7:20)と指摘されたのです。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢、無分別」など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20)と教えておられます。
人は人の心を見ることはできません。また、人は自分の心を隠すことができます。人を裁いてもそのような心を隠すことができるのです。
これらの罪の根は自己中心ですが、持って生まれた原罪は消すことができません。神は心をご覧になる方です。神の前に罪は隠すことはできません。
人々の前に引き出されてきた婦人は、自分が良いことをしているとは思わなかったでしょう。罪の自覚はあったでしょう。それでも罪を犯してしまいました。
パウロは、人の罪について、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されている」(ローマ7:14)と記しました。罪に支配され、罪の奴隷として支配されている存在であると告白しています。
罪に苦しみながらも支配され続けるのが、生まれながらの人でした。
正しいことをしようと決心しても実行できない。それは、罪に支配されている状態だからです。
罪に縛られ支配されているままであるなら、「罪が支払う報酬は死です。」とあります」。しかし、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです」(ローマ6:23)とあるように、救いの道が開かれました。前途にあるのは滅びであった者が永遠の命に導かれるのです。
主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と言われました。「自分には罪がないと思う人は」、石を投げなさいと言われたのです」。
主イエスの御言葉を聞いた人々は、心を探られました。それは一瞬であったかもしれませんが、考えたのです。自分はどうかと。
姦淫は犯していないが、あの人を憎んでいる。あの人を許せないでいる。これから人をだまそうとしているなどなど、心を探られました。
そして、年長者から人々は去って行き、誰もいなくなったのです。
主イエスの御言葉に自分の心を探られ、とても石は投げられないと理解しました。
主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と語り掛けてくださいました。
主イエスは、罪を犯した者に悔い改めの機会をくださるお方です。
この婦人に赦しは無条件に与えられたのですが、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです。
主イエスは、許されてまた同じ生活に戻ってはならないと言われました。悔い改めとは、生き方の方向を変える。主イエスの方向に向かって生きることです。
この婦人は主イエスに許されて帰ることができました。でもまた同じ罪は犯してはならないと教えられました。
主イエスを救い主として受け入れて、新しい命に生かされるのです。
主イエスは、すべての人が罪から解放され、天の父と和解ができるために世に来てくださり、十字架に架って命を捨ててくださいました。三日目に甦られて生きておられるお方です。
私たちの祈りに答えてくださるお方です。悔い改めるなら許して下さるお方です。
主イエスの赦しと永遠の命を喜び、賛美し感謝しながら、その救いを語り続けていきたいと思います。


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