阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年11月15日
「少年イエス」
ルカによる福音書2章41-52節

 今日も共に天の父に礼拝をささげられることを感謝します。
新型コロナウイルスの拡大は、第3波を迎えたようで、尼崎市でも毎日、十数名の陽性者がでています。より一層注意しながら生活をしていきたいと思います。
教会でクラスターが発生しない様に、手指の消毒やマスク着用をお願いします。また、3密を避けるように工夫してください。残念ですが、お交わりはまだできません。離れていても祈り合うことはできます。
お互いに祝福を祈り合いましょう。
ルカによる福音書には、主イエスの12歳の時の出来事が記されています。主の両親は、過ぎ越しの祭りにはエルサレムへ行っていました。
モーセの律法によると、ユダヤの成人男子は三大祭りにはエルサレムの神殿に詣で、礼拝することが定められていました。三大祭りとは、過ぎ越しの祭り、五旬節、仮庵の祭りでした。しかし、遠くの者は過ぎ越しの祭りだけ参加すればよいことになっていました。
過ぎ越しの祭りは、エジプトの奴隷であったイスラエルが救い出されて故郷カナンヘ導き出されたことを記念し、祝う大切な祭りでした。
主イエスが12歳になったときも、両親はイエスを連れてエルサレムへ巡礼しました。ユダヤ人の男児は、13歳でバル・ミツバという成人式に相当する儀式を行いました。律法を守り、成人として礼拝などの宗教行事にかかわることになるのです。その準備は、12歳でのエルサレム巡礼から始まりました。主イエスはちょうどその年齢に差し掛かったのです。ナザレからエルサレムまでの距離は120キロくらいありました。当然徒歩ですから、片道3日かかりました。遠い道です。
祭りが終わって帰途に就いたとき、イエスの両親は少年イエスがエルサレムに残っていることに気が付きませんでした。大勢の村の人々と巡礼団を組んで往復するので、親せきや知人がいます。その人たちのどこかにいて、一緒に帰途についているとばかり思っていたのです。一日分の距離を行って、イエスを探し回りましたが、どこにもいません。そこで驚いて探しながらエルサレムへ戻りました。
三日もたってから、主イエスが神殿にいるのを発見しました。神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したりしていました。聞いていた人々はイエスの賢い受け答えに驚いていました。
母マリアは主イエスを見つけて、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです。」(ルカ2:48)と言いました。すると、「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなったのですか」(ルカ2:49)とお答えになりました。
両親にはその言葉の意味がその時はわかりませんでした。ただただ、子供がいなくなってしまったことを心配して、もう見つけられないのではないかなどと、心騒がせ居ても立ってもいられないほどの三日間でした。
主イエスは、「わたしが父の家にいるのは当たり前」と言われました。
神殿、すなわち父の家にいるのは当然であると言われたのです、自分の父とは、天地万物を造られた真の神を指します。
主イエスは、天の父とご自分の関係を知っておられたのです。
母マリアは、天使ガブリエルから受胎告知を受けて、主イエスを出産しました。聖霊によって身籠ったのです。また、ヨセフも夢で、主イエスは聖霊によって宿ったのであると告げられ、受け入れてマリアを迎えました。不思議な体験をしています。クリスマスの出来事、羊飼いや東の博士たちの礼拝、神殿でのシメオンやアンナたちの途方もない喜びなど、神がこの世に遣わされたメシアであると知っていたはずなのです。
主イエスを心から愛して育てているうちに、いつの間にかわが子以外の何者でもないというように、思うようになったのです。イエスには弟妹が生まれていましたが、この子供たちは、ヨセフとマリアの子どもたちです。
主イエスはご自分がこの世に来られた目的をよくご存じでした、やがて十字架への道を進まれることを知っておられました。
イエスは、母マリアとヨセフに迎えられて、一緒にナザレに帰って行かれました。両親に仕えて過ごされました。ナザレでイエスは、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52)とあるように成長していきました。公生涯に入られる30歳までナザレで過ごされたのです。
真の神であり、真の人である主イエスは、33年6か月の生涯を歩まれ、十字架にかかり、命を捨てくださいました。三日目に復活され、信じる者はだれでも救われます。
過ぎ越しの祭りは、出エジプトと深い関係があります。
イスラエルがエジプトで奴隷となり、苦役のために呻く声を神はお聞きになり、エジプトから脱出させてくださいました。
モーセは、ファラオと出エジプトの交渉をしますが、ファラオはイスラエル人は財産としての奴隷であり、労働力が無くなるので許可をしませんでした。
なかなか許可を与えないファラオに対して、神は10の災いを与えます。ナイル川の水が血に代わる災いから始まり、カエルの災い、ぶよの災い、アブの災い、家畜の疫病の災い、腫物の災い、雹の災い、いなごの災い、暗闇の災いと、エジプト中が苦しみます。しかし、ファラオは心を頑なにして、イスラエルを去らせることをしません。
最後に過ぎ越しがあったのです。
神はイスラエルに、傷のない雄の小羊を用意し、屠ってその血を家の門と鴨居に塗ること。焼いた小羊を苦菜を添えて種なしのパンと食べること、旅立ちの支度をして急いで食べることを示しました。エジプト中の初子を打つとき、その血を見て、その入り口を通り過ぎる。出エジプトした先々、その地で、エジプトのイスラエルの家を過ぎ越して救われたことを記念することを命じられました。頑ななファラオはやっとイスラエルの出エジプトを認めました。最も、心を変えて後を追いますが、完全に打ちのめされてしまいます。
過ぎ越しは、ユダヤ人にとって救いの記念であり、大切な祭りでした。
私たちにとって過ぎ越しが大切なのは、これが 主イエスの十字架の贖いを予表しているからです。
バプテスマのヨハネはヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていました。メシアが来られる前に、人々の心が整えられ、悔い改めるためです。ヨハネは自分の方に主イエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と、言いました。
主イエスがこの世に来てくださった目的を言い表しています。
すべての人は罪のために神の栄光を受けられなくなっており、罪の中に滅びへと向かっていきました。罪の解決の方法はありませんでした。
しかし、神はその独り子をお遣わし下さり、罪のない独り子を十字架に架けてくださったのです。
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。・・・自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Tヨハネ1:7、9)と約束してくださいました」。
主イエスは神の子であり、12歳の時にはすでにご自分の使命をご存じであったのです。
神の御心はすべての人が主イエスにより、救われて永遠の命を持つことです。
家族に、子供たちに、主イエスの素晴らしい救いを伝えるのは御心にかなうことです。言葉と生活で救いを心から喜び、感謝し、告白することは素晴らしい恵みです。フィリピの町で、捕らえられたパウロとシラスによって救いを伝えられた獄吏は、その夜の内に主イエスを救い主と信じて、自分だけではなく、家族ともども救いを喜びました。
主イエスの十字架のご犠牲を覚えたいのです。流された血潮により罪が許されたことを感謝します。そして、その救いは家族に、地域の人々に、職場の人々に、多くの人々に及んでいくことを信じます。
主イエスがこの世に来られたのは、罪人を救うためであり、私たちのためであることを感謝します。主イエスを伝えましょう。救いの御業を見ましょう。


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