阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年11月22日
「祝福を受け継ぐために」
ペトロの手紙T3章8-9節

 主イエスを崇めます。主に守られて、今ここに礼拝をささげられることを心から感謝します。
日々御言葉が与えられ、御言葉によって歩めることは幸いなことです。
主イエスを信じる者がどのように歩み、どのように栄光を現すことができるか御言葉は教えてくださいます。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」。
(詩編119:105)
救い主を心の中に受け入れた時、その人は新しく生まれました。
主イエスの十字架によって罪が許され、主イエスの命によって生きる者とされました。新生したのです。
新生した人は、自分の内に聖なる御霊がお住まいくださっているという確信と、証しを持ちます。
 主イエスを信じると、生き方が変わります。主イエスの栄光を現すように生きようとします。人生が変わるのです。
自分のために、自分が思うように生きるのが当たり前であったものが、主イエスの御心を求めて生きるようになります。聖霊が内におられるからです。
聖霊は、その人の心に働きかけて、御心と一致するように、穏やかに導かれると、トウザーは記しています。
聖書は言うまでもなく神の御言葉です。私たちは日々神の御言葉に聞き、導かれます。
クリスチャンの歩み方について、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(Tペトロ3:8,9)とあります。これは、主イエスが教えであり、主の御心です。
聖書は心を合わせて一つになることを教えています。御言葉にアーメンと同意することから始まります。
フィリピの信徒への手紙2章1節以下にも、「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:1−3)とあります。
これらは、クリスチャンに共通する教えです。救われた者の生き方の土台です。
人は、生まれながらに自己中心なものです。自分はそうではないと思うなら、それは自分を知らないことになります。どんなに人柄が良いと評判であっても、心の奥底には自分の利益をまず求めてしまうという思いがあって、それが諍い(いさかい)の原因になります。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコブ4:1)とあるのです。心の中の罪です。
主イエスは、罪の赦しを与え、神との正しい関係を取り戻すことができるように、この世に来られ、十字架に架ってくださいました。
主イエスを心に受け入れ、聖霊に満たされて神の子としての生涯を送るように新しく生まれた者は、主イエスの命に生きます。
主イエスは、地上におられた時、へりくだった姿で過ごされました。
まず、神の子が宮殿ではなく家畜小屋で誕生されたのです。ローマ皇帝が発令した人口調査のためにユダヤの人々は本籍地に戻って登録をしなければなりませんでした。ヨセフはダビデ王の末裔でしたから、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで、マリアと共に旅をしなければなりませんでした。マリアは月が満ちて、ベツレヘムで出産しましたが、客間には彼らのいる余地がありませんでした。神の子は家畜小屋で生まれ、布に包まれて、飼い葉おけをベッドにして寝かされました。
これ以上貧しい姿はありません。
主イエスは、ヨセフとマリアのもとに、ガリラヤのナザレでお育ちになりましたが、ヨセフは大工でした。ダビデ王の末裔という豪奢なこととは全く無縁でした。
神が人となられたのに、これ以上ないほどに低い姿を表されたのです。
聖書は「謙虚さ」を教えます。主イエスのお姿です。主イエスを見上げて歩むとき、その姿に学び、その教えに導かれます。
主イエスの謙遜を持つとき、人間的な自己主張から解き放たれ、一つになり、同情し合い、愛と憐れみによって人を生かすことができるようになるのです。
主イエスは、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)と教えられました。ローマの信徒への手紙にも、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはならない」(ローマ12:14)とあって、迫害する者のためにさえ、祝福を祈ることが教えられています。
よく、人間関係がうまくいかないということがあります。家族の間でさえ、そのようなこともあります。解決の道を探るのですが、なかなか光を見いだせないで苦しむ人がいます。
御言葉に立つときに、人が考えることのできない道が示されるのです。それは、祝福を祈るということです。普通なら考えることができません。
主は、侮辱する者、迫害する者のために祝福を祈りなさいと教えておられます。
悪に対して悪を返すこと、侮辱に侮辱を返すことは簡単かもしれません。しかし、祝福を祈ることは難しいのではないかと考えます。
主イエスの十字架の贖いによって救われた者は神の子です。神の聖なる霊が宿る神の宮なのです。神の御心に従う力と喜びに満たされるのです。聖霊の喜びです。
主イエスの十字架の姿を拝することができるのです。主は十字架の上で、十字架に架けた人々のために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。(ルカ23:34)ご自分を十字架に架けた人々のために祈られたのです。
この主の十字架のお姿を魂に刻み込まずにはいられません。そして、今も主イエスは私たちのために、また、すべての人のために執り成し続けておられるのです。
御言葉は私たちは祝福を受け継ぐために召されたと教えています。
「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。
(Tペトロ3:9)
ここに、私たちが主イエスを信じて救われた目的があります。召されたという言葉が聖書には使われています。この言葉は神がお呼びになったという意味です。人が地上での歩みが終わったとき、「神に召された」と言います。神がお呼びになって身許に引き寄せてくださった。永遠の安息に入ったという意味です。地上にある者は、深い慰めをいただきます。
主イエスを信じた者も、神に召された者です。神に招かれた者と考えることもできます。その目的は、祝福を受け継ぐためであることを御言葉は教えています。
主イエスがこの世にお生まれ下さって、救いの業を成し遂げられた、恵みの時代の今、その十字架の贖いによって、永遠の命をいただくことが最大の祝福です。神の子とされて、天の遺産を受け継ぐ者とされる
たのです。「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェソ1:18)。心の目が開かれ、悟るようにとの祈りが記されています。私たちが主イエスの贖いによって神の子とされたこと、神の永遠の祝福に満ち溢れていること、その救いがどれほど幸いなことであるかを受け継ぎ、受け継がせていくために、今生きていることを覚えたいと思います。この世の様々な問題は無くなりません。兵庫県はコロナの感染について最高の警戒レベルと発表しました。私たちにとっても、危機と考えられます。それだけではなく、さまざまな困難の中にある人々に、祝福、主イエスの完全な、永遠の救いを受け継がせていくことこそ、緊急の使命であることを覚えましょう。


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