阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年12月13日
「その打たれた傷によって」
ペトロの手紙T2章21-25節

 アドベント第3週を迎えることができました。来週はクリスマス礼拝です。救い主のご降誕を待ち望みましょう。
主イエスを心に受け入れた人は、だれでも神の僕として生きるようになります。かつては罪の奴隷であり、罪に支配され、罪の報酬である死に支配される者でした。
主イエスを心に受け入れた時から、永遠の命の中に生かされ、神の僕として神に仕える者に造り変えていただきました。
キリストを信じた者は、キリストを信じていない人々の中で生活する時、「立派に生活するように」と勧められています。(Tペトロ2:12)
真の神を信じている者は、主に従う正しい心によって生活をしていくが、証しとなるのです。
キリスト者の言葉と生活は大切です。キリスト者は、救い主の愛と言葉を生活の中に必ず表すはずです。キリストの言葉を表す生活は「立派な行い」であり、世の人はそれを見てやがて神を崇めるのです。
クリスマスは福音によって人が誰でも救われるという喜びの訪れです。光が輝き、希望と喜びに満たされる時です。
暗闇の中に救いの光を見出す時です。世の中の立派なツリーも光のモニュメントも、救い主誕生の喜びのしるしなのです。
ペトロの手紙は、神の僕として生きるようにと勧めています。そして、召使たちへの勧めが記されています。
召使は主人の家で働く人たちです。常に主人に仕える者として、時には理不尽な目にもあいます。
落ち度無くして苦しむ時も、耐え忍ぶことこそ、神の御心と教えています。主はすべてご存じです。
神は信じる者と共におられる方です。インマヌエルの主です。どこにいても、どのような環境の中にあっても、苦しみに中にも共にいて、最後まで支えてくださるお方です。
人は誰しも理不尽さには耐えにくいのです。自分には何も落ち度がないのに、責任を取らされたり、非難されることには耐えがたい思いがします。
主イエスは罪とは何の関係もないお方でした。神の独り子でありながらこの世に来てくださり、十字架に架って全世界の贖いを完成してくださいました。
そのお姿は、私たちへの模範であると教えられています。キリストの足跡に続くために模範を示されたと教えています。
「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」(Tペトロ2:21)
模範とは同じようになぞっていくという意味がります。主イエスの足跡をなぞって生きることです。
ここに示されている、「召使」とは、主人の家の中で仕事をする奴隷です。教養のある奴隷は家庭教師をするし、経理ができる奴隷は家計一切を任されました。奴隷でありながら医者であるといった人もいたようです。
主人よりも知恵も教養もある奴隷もいたのです。しかし、奴隷に自由はありませんでした。
どのような主人に対しても主人を敬い従うようにと勧めています。
苦しい時、逃げ場がないような時こそ救い主を見上げて、この方の足跡に続くことに気が付くのです。
主イエスはどのようなお方でしょうか。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(Tペトロ2:22)とあるように、罪となんのかかわりもないお方です。イザヤ書53章の御言葉が引用されています。
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
ペトロの手紙を書いたペトロは、ガリラヤ湖の漁師をしていましたが、主イエスに召されて十二弟子のひとりになりました。
ペトロは、主イエスがゲッセマネで逮捕されると、遠く離れて後についていきました。ペトロの心には恐れがあり、近くにはいられなかったのです。大祭司の庭に入ると、屋敷の庭の真ん中に火が焚いてあったので、人々と共に素知らぬ顔で腰をおろしてあたっていました。
ペトロは、このように、主の十字架の時が近づき、逮捕され、大祭司の庭に連行されてからの一切を目撃したのです。
ペトロは、どんなことがあっても最後まで主に従うと豪語していたのですが、実際には主イエスの預言通り、主イエスと一緒にいた人だと指摘されると、鶏が鳴く前に3度主イエスを知らないと否定してしまいました。主イエスは振り向いてペトロをご覧になりました。ペトロは、主の言葉を思い出して外に出て激しく泣きました。
大祭司の庭で侮辱され,殴られ、ののしられても、主イエスは口を開きませんでした。ペトロはそのお姿と、振り向かれた主のお顔を忘れることはありませんでした。主イエスの姿を思い出しながらこの手紙を記しました。
 主イエスは、罵倒され侮辱されても、侮辱に侮辱を返しませんでした。
もし、主イエスが黙して十字架に向かってくださらなければ、全世界の罪の贖いはなされませんでした。
主イエスは私たちすべての者の罪の身代わりとなってくださいました。
罪のない方が、罪を背負われ、十字架に向かわれることはあまりにも理屈に合わないことです。しかし、正しい裁きをなさる神にすべてをお委ねになりました。
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Tペトロ2:24)とあります。
すべての人の罪をご自分の身に負ってくださいました。旧約時代に罪の赦しのために祭壇の上に動物がささげられたように、十字架に架って下さったのです。
主イエスを裏切るという、背きの罪を犯したペトロでした。その傷は深く何をもっても癒されないような傷でした。
一生その傷を背負っていかなければならないと、暗澹とした心でいなければなりませんでした。
しかし、どのような罪であれ、その罪は主イエスが十字架で身代わりの死をもって贖って下さったのです。主イエスの十字架と復活の目的が完了しました。
ペトロは復活の主にお会いし、ふたたび召しをいただいて、その生涯を使徒として全うしました。赦され立ち直り、使命を最後まで果たすことができました。
人は誰でも罪による大きな傷をもたままで生きています。生きていく中でさまざまな問題に息詰まります。たいていの人は、その原因は自分以外にあると思います。誰かがわたしを傷つけたから立ち直れない、毎日苦しいと訴えるのです。そうかもしれません。でも、その前に大きな原因は、自分の心の中にある罪であることに気づくことは幸いです。自分中心、自己義、人を蔑む心、憎む心が傷になり、大きく広がって苦しむのです。罪の奴隷になり、支配されてしまうのです。
その傷は、すでに十字架によって解決されていることを覚えなければなりません。
「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Tペトロ2:24)
主イエスを見上げ、主よと叫ぶ前に主イエスはその手を差し伸べてくださいました。「あなたのために十字架に架った」と語ってくださいます。
クリスマスは喜ばしい救いの訪れの時です。そして、静かに主の十字架を思い、悔い改める時でもあります。
飼う者のない羊のように罪の中をさまよっていた者が、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです。
私たち一人一人のために十字架の苦しみを受けて下さった計り知れない愛を覚え、癒され、共に歩んでくださる主を崇めて参りましょう。


 ページのトップへ
  
2020年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ