阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年12月20日
クリスマス礼拝
「救い主を求めて」
マタイによる福音書2章1-12節

 クリスマス礼拝をおささげできることを感謝します。
新型コロナウイルスの拡大がとどまらず、今年のクリスマス礼拝もYouTubeに切り替えたという教会も多いと、聞き及んでおります。
私たちの教会も、今年はいつもと違う静かなクリスマスを迎えました。例年でしたら、にぎやかにファミリークリスマスでお祝いし、日曜学校でも楽しいお祝い会をしていました。
何より、ゴスペルコンサートを、5月も、クリスマスもできなかったことは、本当に残念なことでした。
そのような中にあっても、礼拝が守られていることを感謝します。
尼崎市でもコロナウイルスのクラスターが次々に発生しています。祈りながら、そして、より一層感染に気を付けながら生活したいものです。
 主イエスがベツレヘムでお生まれになった時、東の方から「占星術の学者たち」がエルサレムへやってきました。
彼らは、東の国、バビロンか、その周辺の国の、星を見る天文学者であったと思われます。彼らを博士と呼びたいと思います。
天文学だけでなく、当時の学問に精通していたような人たちと考えることができます。ですから、「東の博士」と訳している聖書もあります。
彼らは、はるばるとエルサレムへやって来て、ヘロデ王に面会を求めました。
ヘロデは当時の王ですから、当然宮殿にいました。東の博士たちはヘロデに面会できるような人たちでした。王が宮殿で怪しい人や、身分の低い人、得体のしれないような人に会うわけはなく、そのような人たちは宮殿に入ることすらできないでしょう。
博士たちは、ヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」(マタイ2:2)と言いました。
大胆な言葉です。なぜなら、ヘロデ王は猜疑心が強く、残虐で自分の王位が狙われると邪推して、家族ですら殺すような人だったからです。
それは、後でベツレヘムと周辺の男の嬰児を殺させたことでもわかります。
ヘロデは不安を覚えました。それは王位を奪われるのではないかという不安でした。エルサレムの人々も不安を覚えたとあります。ヘロデの暴走を恐れたのです。
ヘロデは祭司長や律法学者たちを集めてメシアの誕生地を調べさせました。この人たちは旧約聖書ミカ書の御言葉から、ユダヤのベツレヘムであると答えました。
そこで、ヘロデは博士たちを密かに呼び、星のあらわれた時期を確かめた上、「行ってその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(マタイ2:7)と、ベツレヘムへ送り出しました。おそろしい嘘でした。
彼らが旅立つと、東方で見た星が再び先立って進み、イエスのいる場所にとどまりました。
博士たちはその星を見て喜びに溢れました。
その家には、幼子イエスと母マリアがおられたのです。博士たちは、ひれ伏して礼拝し、宝の箱を開けて、「黄金」「乳香」「没薬」をささげました。
そして、夢でヘロデの所に帰るなとお告げを受けたので、別の道を通って帰国しました。ヘロデの言葉を信じて宮殿に戻ったら、命をとられてしまったに違いありません。
今回のテキストの中にはさまざまな人が出てまいります。博士たち。ヘロデ王。エルサレムの人々。律法学者たち。
キリストが誕生された時にそれぞれが、それぞれの思いの中にいました。
長い間メシアが来られるという預言を知っていたはずのユダヤの人々は、メシア誕生の地すら知りませんでした。
救い主が来られることを頭の中では知っていても、心のなかで切実に待ち望むことはありませんでした。時代が長く経過していく中で、いつしか信仰はぼやけ、メシア誕生の預言はかすんでいました。
エルサレムの人々はローマ帝国の圧政や、ヘロデの統治を恐れていました。いつの間にかメシア待望は、一部の熱心な人々を除いては、おぼろげなものになっていたのです。
遠いはるかな東の国からやってきた博士たちは、異国の民でありながら、不思議な星を見た時、どうしても王として生まれた方、救い主を礼拝したいという熱心さをもちました。
楽な旅ではありません。旅の途中事故にあったり、盗賊に襲われる恐がありました。何が起こるかわかりません。病気になるかもしれません。ユダヤを目指しても一体どこにおられるのかもわからない旅です。それでも、お会いしたい、礼拝したいと熱望しました」。
王としてお生まれになったのなら、エルサレムの宮殿に行けば分るに違いないと思っていました。
博士たちの願いはただ一つでした。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)
何千キロも離れた異国から星に導かれてやって来たのは、礼拝のためでした。
ベツレヘムへ向かう時、再び星を見い出し、導かれて救い主の所までやって来た時の喜びはどのようなものだったでしょうか。
過酷な旅も、何もかも忘れるほどの喜びに満ち溢れました。
「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(マタイ2:11)
王としてのメシアをあらわす黄金、罪のない方の清らかさをあらわし、祈りを象徴する乳香、十字架の死の備えとしての没薬がささげられました。救い主にふさわしい贈り物でした。
その出来事から2千年余りがたちました。21世紀になってはや21年を迎えようとしています。世の中は便利になりました。今はコロナウイルスの問題で大変ですが、ワクチンができるというニュースが流れるようになりました。
どのような時代と、問題の中にあっても、私たちは救い主を待ち望むことを忘れてはなりません。
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち、偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」
(テトス2:11−13)とあります。
私たちは、主イエスがこの世にお生まれ下さったクリスマスと、天に帰られた主エスが再び来てくださる時の間に生かされています。
初臨と、再臨の間です。主がいつ来られるのかはわかりません。
もう2千年もたっていると思う人もいるかもしれません。しかし、私たちの時間の観念と神様の時とは違います。
「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Uペトロ3:8、9)と教えています。
救い主の来臨がおぼろげになってしまっていたユダヤの人々のようであってはなりません。救い主が再びおいでになることを熱心に待つ信仰をクリスマスにもう一度確認したいのです。熱心に主イエスを求め続けたあの博士たちのようにです。
主イエスが来られる時まで、救い主の愛と救いを告げ知らせていく者でありたいと思います。
そのように熱心に願い祈る時、聖なる御霊は満ち溢れてくださり、力に満たしてくださいます。
主イエスを熱心に求め続け、その御心を求め続け、御業のために用いてくださいと、熱心に祈り続けましょう。


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