阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年1月10日
「この方は一体誰なのか」
マルコによる福音書4章35-41節

 新年第2聖日を迎えました。今日も主を崇め賛美し礼拝しましょう。
先週、東京都をはじめ三県に緊急事態宣言が出されました。
大阪や兵庫県もコロナウイルスの感染拡大が止まらず、緊急事態宣言が出されると思います。
この宣言が出された場合、残念ですが教会も集まることをせず、昨年同様YouTubeでの礼拝になります。YouTubeになった場合、日曜日10時30分にそれぞれのご家庭で礼拝をささげていただくようになります。また、YouTubeの環境のない方には、日曜日には間に合いませんが、礼拝DVDを用意いたします。その週前半にはお渡しできると思います。
コロナウイルス感染拡大が一日も早く終息するように祈りましょう。
 さて、人生には困難がつきものです。一度も苦しみにあったことがないという人はいないと思います。
私たちは、主イエスを信じて救われた時から苦難や試練、苦しみの意味を知る者になり、苦しみの中にあるからこそ、そこに主の御手が差し伸べられていることを知る者とされました。
今日は、マルコ4章35節以下から主の御旨を伺いたいと思います。
その日、夕方になって、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。ガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとされたのです。この日も主イエスは神の国の教えを群衆に伝えました。
弟子たちは、ペトロをはじめとしてガリラヤ湖の漁師出身の者が多くいましたから舟を出し、漕ぎ出すのは何の問題もありません。他の舟も一緒だったとあります。
湖に漕ぎ出すと、途中で激しい突風に見舞われ、舟には波が入り水浸しになるほどでした。ガリラヤ湖は海抜がおよそマイナス200mで大変低く、周りの山々からの風が吹き下ろしやすい地形でした。すり鉢の底のような場所にあったのです。
突風の中で弟子たちが恐れ、戸惑う中で、主イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられました。日々神の国を伝えるために働かれていて疲れたのでしょう。艫とは舟の後ろの部分です。
弟子たちは恐怖のあまり、主イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4:38)と言いました。
「おぼれる」とは、「滅びる」という意味の言葉です。
弟子たちの心の中に、主イエスがガリラヤ湖を渡ろうと言われて、それに従ってきただけなのに、嵐に会い、舟は沈みそうになっている。
なぜこのような危険に遭遇しているのかという思いが膨らんでいました。しかも、主イエスは眠っておられる。不安といら立ちが主イエスを起こす言葉に表れています。
「私たちが死んでも構わないのですか」という気持ちです。
主イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」(マルコ4:39)とお命じになりました。するとたちまち風は止み、すっかり凪になったのです。
主イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコ4:40)と言われました。弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(マルコ4:41)と、互いに言い合いました。
このところから、危険な状況に陥ったときの人と、主イエスの状態を見ることができます。
主イエスを信じて従ってきたのに、思いもかけないような苦難にあうことがあります。イエス様を信じているのに、なぜこんなことがおこるのかということを体験します。「私たちが滅びても構わないのですか」という気持ちになります。
慌てふためき恐れの中にある人の中に、主イエスは静かに眠っておられます。まるで嵐など主イエスの周りにはないようです。そこには安心と平安が満たしています。
死の恐怖の中にある弟子たちに対して主イエスはどのようになさったのでしょうか。
「静まれ、黙れ」と、風と湖を静めてくださいました。主イエスは御言葉によって激しい嵐を静めてくださいました。
主イエスは地上におられた時は人間として歩まれました。
しかし、主イエスは神です。神には全能の力をもって風や嵐を治める力があります。
主イエスは、私たちの人生の中で起こる大嵐の中に、平安と安定を備えて、救って下さる神です。
主イエスは、十字架によって罪の嵐を静め、私たちを救って下さいました。罪のために大波をかぶり、今にも滅びそうな者を救ってくださったのです。滅びの道から、命の道へ歩む者に変えてくださいました。
嵐の中に投げ込まれた時、私たちは何にをどこをるのでしょうか。
嵐、暴風という中に翻弄されて「溺れそう、滅びそう」というときに、「主イエス様、助けてください」と叫び、嵐を静めることがお出来なる方に目と心を向けることによって、必ず救いだされます。
嵐の中で主イエスに目を注げる人は幸いです。
嵐の大きさや激しさに目を注いで、心をとらわれても何にもなりません。救いはありません。
主イエスは私たちの人生という舟に乗っておられる方です。人生の中で道を失い、困り果てることがあるかもしれません。
苦しみに目を向けるのではなく、どのようなことも完全に解決できる全能の神に目を注ぎ、より頼むのです。
私たちの人生という舟、航海には、主イエスが共におられるのです。
パウロは、カイサルに上訴するためにローマに向かいました。困難な船の旅です。使徒言行録26章以下にその航路が詳しく記されています。
「良い港」という名の所についたのですが、航海をするには危険な時期になっていました。パウロは航海の危険を思い、船出を延期するよう提案しましたが、船長や船主は出航しフェニクスというところで冬を越すことにしました。
ところが途中で季節風に巻き込まれて、先へ進めずに、流されるままになってしまいました。暗礁に乗り上げることを恐れて船荷を捨て、船具も捨て、暴風が吹きすさび、幾日もの間太陽も星も見えず、助かる望みも潰えたと記されています。(参 使徒27:20)
パウロは、人々を励まし、「一人も命を失う者はいない」。神が遣わされた天使が、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。」(使徒27:24)と告げられたことを話しました。パウロはローマに無事に到着できることを確信することができました。
人々を励ましたのです。やがて船は暗礁に乗り上げ、人々は泳いでマルタ島に上陸することができました。
船の船長や船主は、利益や都合しか考えられませんでしたが、無謀で愚かな判断しかできない航海の中にも、神は共におられて、パウロや人々を守ってくださいました。目的地まで守り、導いて下さいました。
詩編107編23節以下には、船乗りが嵐の中で困難を覚えて、これまでの知識も経験も役に立たないような恐れの中にいることが描写されています。その時どうしたのでしょうか。
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」(詩編28−31)。とあります。どうしようもない事態の中で主に叫び求めたのです。救いはすぐそこにあります。望む港に無事にたどり着きました。
喜び祝ったのです。感謝をささげました。
今は、世界的にコロナウイルス感染拡大の大嵐の中に翻弄されているようです。このような時だからこそ、主イエスに心と目を注ぎ、嵐を静められる全能の神に信仰を置きましょう。恐れ惑うことはありません。主はすべてを益に変えてくださることを、私たちは知っているのです。
いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(マルコ4:41)主イエスは救い主、十字架に架って罪を贖い永遠の命を与えてくださり、人生の主、素晴らしいお方なのです。

今週のみことば

「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」
マルコによる福音書4章41節



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