阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年1月24日
「希望と誇り」
ローマの信徒への手紙5章1-5節

 今日も会堂で礼拝することはできませんが、心を合わせてYouTubeで礼拝をささげましょう。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、何かと閉塞感を覚える日々ですが、その中にも確実な主イエスの導きがあることを感謝します。
今日はローマの信徒への手紙5章1節から御心を伺いたいと思います。ローマの信徒への手紙のテーマは「信仰によって義と認められた」というものです。
罪人であった私たちが、イエス・キリストの十字架によって罪許され、神の前に義とされたという素晴らしい教えです。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)と、宣言されています。キリストの十字架の死と復活を信じる者は誰でも罪が許され、義とされるのです。それが信仰の大前提です。
主イエスは、全世界の罪の贖いとなってくださいました。この方を救い主として心に受け入れる者は誰でも救われ、永遠の命を持つ者とされます。
罪のために神と断絶していた者が、十字架により神との正しい関係を持つ者とされたのです。神との平和が回復されたのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23、24)
と教えられている通り、神の恵みによって無償で義とされました。
罪深い者が十字架の血潮により聖められ、神の子とされたのです。
人は、神との関係が回復しない限り、本当の平安を心に持つことはできません。人は、自分の心が穏やかであるために、さまざまなことを求めるのですが、それによって与えられる平安は一時的で、長続きしません。かえって、平安を追い求めるために、人生が狂うこともあります。
依存症になることがあるのです。
スマホ依存などがあります。片時もスマホを離さず、夢中になってしまうということを聞きます。心の平和と安定を求めているはずが、かえって悪い方向に進み、健康や精神に悪影響が起きて問題になってしまいます。
キリストの十字架によって義とされた者が持つ平安こそ、人が求めていかなければならないものです。
ローマ5章1節から5節の中に、「誇りにしています」という言葉が二か所で使われています。
「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(ローマ8:2)、もう一か所は、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(8:3)です。
人に、誇りは大切だと考えられます。誇りとは、自分と自分にかかわるものは良いものだと自負することです。誇り、プライドを傷付けられることほどつらいことはなく、誇りを守ろうとするのは当然かもしれません。
人にとって誇りを持つことは大切なのですが、誇りによって人を見下してしまう事があります。
誇りが頑固さや、人に対する高ぶりに繋がるのです。
良くわかる例が、ファリサイ人と取税人の祈りです。ファリサイ人は自分を正しい人間だと、誇りに思っていました。しかし、この誇りはうぬぼれとなり、他人を見下す思いに凝り固まっていたのです。
ファリサイ人は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11、12)。彼は、立って心の中でこのように祈りました。私には神に対して一点の曇りもないと誇ったのです。
一方、徴税人は遠くに立ち、目を天に向けることもせず、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と、胸を打ちながら祈りました。義とされて家に帰ったのは徴税人でした。主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)と教えておられるのです。
「義とされた」とは、神との関係が正しいものとされたということです。あれほど自分を誇っているファリサイ人は、まだ神との関係が修復されていないのです。徴税人は神の下さる、内からわき上がる平安に満たされたことでしょう。それは、だれも奪うことのできない神の平安です。
御言葉は、神の栄光にあずかる希望を誇りとし、そればかりではなく、苦難をも誇りとすると、続いています。
神の栄光にあずかるということについて考えてみましょう。キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられた。そして、神の栄光にあずかる希望を誇りとしている。誇りという言葉は、「喜んでいる」とも訳せるのです。
キリストの十字架で神との和解がなされ、遠慮なく神の御前に進み出ることができる恵み、罪のため滅びることなく永遠の命に生きる恵み、その希望に生かされていることを教えています。
やがてすべての人が神の前に出る時が来ます。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように・・・」(へブライ9:27)とあります。裁きの時にも、神との和解を受け、義と認められたものは恐れることなく、御前に立つことができるのです。そのような栄光の希望を持ち続けることができるのです。それは、誇りであり、喜びです。
そればかりでなく、「苦難」をも誇りとし、喜びます。
苦難とは、キリストを信じているために起こる迫害や戦いを言います。主イエスを信じた者が、主に従おうとすると、苦難や困難が押し寄せてきます。サタンは、信仰者が困難のゆえに信仰を無くすようにと働きかけます。
苦難は忍耐を生み出します。困難な中にも神を待ち望み、揺れ動かない忍耐です。忍耐は練達を生み出します。忍耐の中で体験として知る信仰の成長です。キリストを信じるとは、キリストが生きておられる神であることとを体験として知っていることです。
練達は希望を生み出します。この世にある時も、召された後も永遠の命に生かされているという希望と喜びです。
希望は決して失望に終わりません。
「希望は私たちを欺くことがありません。」(ローマ5:5)神の約束は私たちを失望させないのです。
父なる神がどれほど私たちを愛しているか知っているでしょうか。
その独り子さえ惜しまずに死に渡された愛が注がれているのです。
主イエスが語ってくださった放蕩息子のたとえ話をいつも思い出します。自分勝手で、自分の欲を満たすことだけしか考えられない息子。父の思いなど知る由もなく、身勝手で放縦な生き方しかできないみじめな姿。人の罪の姿が良く表されています。
いったん命に係わる危難に襲われた時に、ハッと我に返ることができました。初めて父のもとにいた時の幸いを思い出したのです。息子は悔い改めて生き方の方向を変えました。父のもとに帰ったのです。息子ではない。雇人の一人にしてもらおうと思いました。
父はどうだったでしょうか。はるか彼方から、みじめな姿で歩み来る息子を、わが子と認めて走り寄って抱いたのです。
息子に履物を履かせ、指輪を与え、美しい最上の衣を着せました。雇人ではなく父の子である証しです。
肥えた子牛を屠ふり、祝宴を開いて喜んだのです。
このような愛が私たち一人一人に注がれていることを覚えなくてはなりません。
今はコロナウイルス感染拡大防止のために、教会のすべての集まりができません。つらい困難な時です。
しかし、困難な時に御言葉の約束を信じて、信仰の勝利を得ることができるのです。神の御言葉が真実であることを体験できるのです。
再び顔を合わせて礼拝する時、私たち一人一人にどのように愛が注がれたのかを証しできるのです。希望は失望には終わりません。


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