阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年1月31日
「信仰による励まし」
Tテサロニケの信徒への手紙3章7-10節

 新型コロナウイルス禍のために、何かと不安と閉塞感を覚えますが、今日も救い主を見上げて賛美しましょう。YouTube礼拝を感謝します。
主イエスは私たちに、いつも御言葉を下さって、励ましと慰めを与えてくださいます。
きょうは、テサロニケの教会にあてた手紙から御言葉を分かち合います。テサロニケは、今もギリシャの第二番目の都市として存在しています。
テサロニケでの伝道は、パウロによって行われました。第二回目の伝道旅行で、福音はマケドニアへ伝わりました。パウロはアジア州で伝道しようと思ったのですが、聖霊が道を閉ざしました。主のご計画があったからです。
パウロは、トロアスという町でマケドニア人が、「マケドニアに渡って来て、わたしたちを助けてください」と願う幻を見て、直ちにマケドニアへ渡りました。最初はフィリピで福音を伝え、次にテサロニケへ行くことになりました。
パウロとシラスはテサロニケで、主イエスの十字架の死と復活を伝えました。主イエスこそ救い主であることを語ったのです。救いの御業が起きて、人々が救われました。
ところが、ユダヤ人たちははそれをねたみ、ならず者を使って暴動を起こして大混乱になりました。パウロとシラスを引きずりだそうとしたのですが、見つからなかったので、ヤソンという人と、他のクリスチャンたちを町の権力者のもとに連れ出しました。ユダヤ人たちは、「世界中を騒がせてきた連中がここにも来ています」(使徒17:6)と、大声で訴えました。
パウロたちは、直ちにべレアへと移りました。べレアのユダヤ人たちは素直で、パウロたちが語ることを熱心に受け入れ、聖書の御言葉を調べるような人々でした。べレアでは多くの人々が主イエスを信じたのです。ところが、テサロニケのユダヤ人たちがべレアまで押しかけて来て、群衆を扇動しました。それでパウロをアテネに旅立たせ、シラスとテモテはべレアに残りました。
テサロニケのユダヤ人は頑なな人々でした。しかし、テサロニケで語られた福音は実を結び、教会が建て上げられていきました。
しかし、依然としてテサロニケ教会は迫害の中にありました、
激しい迫害に遭っている教会は試みられ、信仰が守られていくだろうかと、パウロは心配したのです。それで、テモテを派遣しました。
教会にも、クリスチャンにも苦難は常にあります。昨年から新型コロナウイルス感染防止のため、非常事態宣言が二度にわたって発令されました。それでも感染した人々が増え続け、医療崩壊が叫ばれています。2月7日に宣言は解除される予定ですが、延長されるかもしれません。
日本中の教会で礼拝に集うことができなくなってしまいました。
クリスチャンの信仰と生活の中心は礼拝です。日曜日に礼拝をささげ、神との交わりの中に自分自身をささげ、信仰の新しい決心が与えられ、歩むことができます。また、兄弟姉妹と主にある交わりをして、信仰の証しを互いに喜び合うことができないのです。
礼拝と交わりができない現実に、戸惑いと不安を持ちます。
私たちにとっての困難は、外側からの迫害などの恐れではなく、自分自身の信仰をどのようにして保ち、成長させていくかにあります。
今。この危機と苦難を乗り越え、勝利していくかが問われます。
パウロはテサロニケ教会が心配で仕方がありませんでした。あれほど苦労して、信仰の戦いをしながら建て上げたキリストの教会です。
困難のあまり、信仰を失ってしまうのではないかと心配しました。
しかし、テサロニケに送派遣したテモテが帰って来て、嬉しい報告をしてくれました。「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」(Tテサロニケ3:6)とあります。
それは、テサロニケの信徒たちが、迫害と苦難の中にあっても、動揺することなく、しっかりと愛と信仰に立っているという知らせでした。また、パウロたちを忘れることなく、パウロが会いたがっているように、パウロにしきりに会いたがっているという知らせでした。
パウロは、「それで、わたしたち自身、あなたがたが今受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」(Uテサロニケ1:4)と書き送りました。
パウロは、テサロニケ教会が迫害の中で信仰に踏みとどまっている、その中に忍耐と信仰が示されていることを誇らしく思いました。
テサロニケ教会が揺らぐことなく立っていることを通して、パウロは生かされ支えられているのです。
現在、私たちは主イエスを信じることは自由です。しかし、日本では、明治になってからもキリシタン禁教令は続いていました。
国策としての禁教は1612年に発令され、1873年まで(明治6年)まで信仰の自由はありませんでした。
激しい迫害にあっても棄教しなかったクリスチャンたちの姿勢は、津和野をはじめとして、各地で多くの証しが残されています
信仰と迫害はいつの時代にも切り離して考えることはできません。
もっとも、今の私たちには命にかかわる迫害はありません。
しかし、主イエスに従おうとすると、反対されたり、妨害されたりして辛い思いをすることはあるかもしれません。試みに合って悲しむこともあります。
パウロは、愛弟子テモテに、自分の信仰の戦いを振り返って書き送り、主がそのすべてから救い出してくれたこと、そして主に結びついて敬虔に生きようとする人は皆迫害されるのだと教えました。
「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(Uテモテ3:12)とあります。
私たちは、主イエスの尊い十字架の血汐によって罪許され、神の子とされ、永遠の命に生かされている者です。
私たちは、苦難の中に互いに祈り合い、支え合い、励まし合うことができます。パウロはこの手紙をコリントで書きました。それぞれが居る所は離れていても、信仰と祈りにより一つになり、喜び合うことができるのです。
教会に集い、兄姉と共に礼拝できない今こそ、私たちは御言葉に立ち、互いに祈り合い、信仰を喜び合い、その信仰に互いが生かされていることを覚えようではありませんか。離れているからこそ、また会えることを切に願い、祈り合うことができます。それは互いの力になり、励ましとなり、試練に打ち勝つ力となります。
聖歌607番「つみとがをにのう」は、誰でも知っている賛美です。作曲はコンバースですが、作詞者はジョセフ・クライバンというアイルランドの人です。彼は弁護士であり、アマチュアの音楽家でもありました。若い時に婚約するのですが、結婚式前日婚約者は事故で亡くなりました。悲しみが癒えずにカナダに移住して、クリスチャンの良い奉仕を続けました。41歳の時に再び婚約しますが、婚約者は結婚前に結核で世を去ります。クライバンは、二度も婚約者を亡くすという悲しみにあった人でした。彼は悲しみの中にも信仰を失うことなく、主イエスへの祈りが歌となりました。特に2節の歌詞の直訳は、
「世には試練も誘惑も多い。
どこにでも困難はある。
それでもくじけてはいけない。
祈って主に委ねなさい。
世に真の友をみつけられるだろうか。
すべての悲しみを分かち合える方を。
イエスは我らの弱さを知っておられる。祈りの中に主に委ねなさい。」
というものです。
自分自身の悲しみや苦しみを超えて、人を慰め励まし、力となることができるのです。1885年作となっているので、130年以上も賛美歌として用いられてきました。
主にあっていつも喜びに溢れ、感謝をささげ、夜も昼も兄弟姉妹のために、主の教会の為に、切に祈り続ける者でありましょう。


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