阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年2月7日
「休ませてあげよう」
マタイ11章28-30節

 主イエスの守りの中に日々を送り、YouTubeで礼拝をささげられることを感謝します。残念なことに兵庫県でも非常事態宣言が3月7日まで延長されて、もうしばらく教会に集まることができません。
離れていても日々兄姉を覚え、祝福を祈り合いたいと思います。
主イエスは常に共におられ、御言葉をもって導いて下さることを感謝します。
主イエスは愛のまなざしを私たちに注ぎ、常にご自身の許に招いて下さいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と、呼びかけてくださいます。
人は、体も心も疲れ果てて弱ってしまうことがあります。多くの重荷に苦しむこともあります。たくさんの問題を抱えて疲れても、人にはそれぞれ違う問題があって、人に理解してもらえないようなことが多いのではないでしょうか。
主イエスは、何度も「わたしのもとに」と言われています。
「わたしのもとに来なさい」(11:28)「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」(11:29)
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
(11:30)と続いています。
たった3節の間に6回も「わたし」の許にと、招いておられるのです。
主イエスが教えてくださる「休息」の方法は、私たちの方法と違います。
私たちは、休むとは、何もしないでゆっくりする、睡眠をとる、自分の好むことをして息抜きすることなどを考えます。どれも必要ですが、主イエスの招きは違います。
「わたしの軛を負う事」、「わたしに学ぶこと」そうすれば、安らぐと教えておられるのです。
私たちは現在、軛を見ることはありません。日本では昭和40年くらいまでは耕作に牛などを使っていたようです。軛は、家畜を2頭横につないで使う道具です。
主イエスは、まず、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と言われました。
主イエスのもとに行くことが最初です。
主イエスは、私たちを愛して、罪の軛から解放してくださいました。
私たちは、以前罪がわかりませんでした。自分が罪に縛られていることなど知りませんでした。罪とは、犯罪のことであり、警察に捕まることをすると、それは罪だと思っていたのです。
主イエスの招きを受け、心に光を受けた時、自分の内にある罪に気が
付くのです。
私たちは、創造主である神によって造られた者です。しかし、アダムとエバが神に背いたときから、神から離れ、真の神との正しい関係を持てない様になりました。真の神との断絶です。
このことが的外れなのです。真の神から離れている状態です。これは罪です。
さらに、神の御言葉に表されている御心に従うことができないということも、罪なのです。主イエスは、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と教えておられます。
生活の中で主イエスに従おうと思ってもできないことが多く、悔い改めの祈りをすることが多いのではないでしょうか。主イエスは十字架に架り、信じる者を義としてくださいました。
また、罪とは、私たちの内にあるものです。
表側をきれいに保っても、内にある罪は消えません。
主イエスは人の心の中からでてくるものが人を汚すと言われました。「つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:20−22)とあります。犯罪は内にある罪が形になって表に表れてくることなのです。
主イエスが問題にされるのは、内に持つ罪です。
罪の支払う報酬は死です。罪を消し去る方法を人は持ちません。神は独り子をこの世に遣わされて、全人類の罪の贖いとされました。
罪とは一切かかわりのない神の子を、十字架に架けたのです。主イエスはすべての人の罪を背負われ、十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されました。今も生きておられて、私たちの為にとりなしていてくださいます。
この主イエスの軛を負いなさいと教えてくださいました。
かつては苦痛に満ちた罪の軛を負って、やがて滅びに向かっていた者が、主イエスの軛を、主イエスと共に負う者とされたのです。罪の重荷は、主イエスの十字架で許されました。
では、私たちが、それぞれが持っている現実の生活の中での重荷、苦しみ、悩みはどうしたらよいのでしょうか。
主イエスの軛にあるなら、それは負いやすい重荷になるのです。重荷とも言えなくなるのです。主イエスの軛に連なり、主イエスが導き、その重荷を引き受けてくださるからです。
軛にある者は、自分で軛から離れることはできません。主イエスにしっかりと連なることは幸いなことです。
特に今、コロナ禍の中で、さまざまな苦しみが増し、先行きがわからないなど、ありとあらゆることで悩むのですが、主が隣におられて、同じ軛を負ってくださっていることを覚えなければなりません。
主イエスは、ご自身を柔和で謙遜な者だと言われました。柔和とは、ただ優しく穏やかなだけではなく、しっかりとした信仰に基づく判断ができることです。何が御心で何がそうでないかとわきまえる心と言えます。それは、謙遜にもつながります。
謙遜とは、自分を必要以上に低くすることではなく、自分の正しい姿を知ることです。
主イエスは柔和であり、謙遜な方です。すべての人の罪を贖うために黙して十字架への道を進んでくださいました。救いを完成させてくださいました。主イエスに学ぶという姿勢を常に持ち続けたいと思います。
主イエスを慕い、主イエスの軛に繋がれて学ぶとき、私たちは、平安と魂の休息を得ることを体験します。
私の重荷は私だけではなく、主イエスが負って下さるのです。
主イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:30)と、約束されました。
主イエスにある者の幸いです。
主イエス様の時代に、ユダヤは、ローマ帝国の支配を受けていました。ローマ人は路上で、そこにいるユダヤ人の誰にでも荷物を運ばせることが許されていました。ただし、距離は1マイルと、決められていました。1.5キロメートルくらいの距離ですが、荷物を担がされる人にとっては、屈辱的でつらいことでした。
国がローマに支配されている屈辱と、重い荷を持たされて歩かされる奴隷のような扱いに、怒りはわき上がりました。
ところが、主イエスはそのような時には、一緒に2マイル行きなさいと、教えたのです。1マイル強いられたことに対して、後の1マイルは自由の意思で行くようにと教えられました。
主イエスの柔和さと謙遜が教えられています。
ありとあらゆる問題で疲れ果てる時、今、軛を無理やり外そうとしてはいないだろうかと反省します。自分だけで軛を負うことは大変です。どこへ行くのかわからなくなります。
主イエスの軛にあるとき、そこに平安と安らぎを体験できるのです。
主イエスが先立ち、そのあとに従えるのです。
主イエスの軛にある者の幸いと安らぎをいつも体験していることを感謝し、さらに共にある主を崇めたいと思います。
主イエスの軛にあるなら幸いです。主にある休息と平安を喜びましょう。



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