阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年2月14日
「主に養われる羊の群れ」
詩編100編3節

 今日もYouTubeでの礼拝になりますが、心を一つにして、礼拝をささげましょう。
新型コロナウイルス感染拡大防止のために、なかなか日常が戻りませんが、主の御手の中に平安をいただけることを感謝します。
今日は詩編100編の御言葉を分かち合いたいと思います。
この詩編は礼拝の喜びをうたった詩編です。
「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」(詩編100:1,2)と、礼拝への招きの言葉が記されています。
「全地よ」、とは、私たち一人一人、地に住むすべての人を指します。
生きとし生ける者すべてが招かれています。
主に向かって、「喜びの叫びをあげよ」、「喜び祝い」、「喜び歌って」と、何度も喜びの叫びをあげよと勧めがなされています。
礼拝は主ご自身を喜ぶことです。
主を喜び、主に仕えること、それが礼拝の基本です。今日も喜びを持って、主の御前に進み出ましょう。
人には、感情があります。「喜怒哀楽」、怒ったり、喜んだり、悲しかったりというような感じる心です。感情のない人はいません。感情が豊かなことは良いことです。
しかし、自分の感情ばかりに頼ってしまうと、気分の良し悪しで日々を過ごすようなことになりかねません。
信仰によって歩むことを心に留めていながら、気分の良い日には信仰的になり、気分の悪い時には落ち込むといったことにもなってしまいます。
なかなか感情のコントロールは難しいものだと思います。
100編で進められている、「喜び」も感情なのですが、それはいったいどのような喜びなのでしょうか。
イザヤ書12章に、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌。わたしの救いとなってくださった。」「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を飲む」
(イザヤ12:2,3)という御言葉があります。
救いと喜びについて記されています。
救われた者は、尽きることのない喜びの泉から水を飲むのだと教えられています。
天の父は私たちを愛して、その独り子を世に遣わされました。だれでも独り子を救い主として信じ、受け入れる者は、救われて永遠の命を持つのです。神の子とされて、神の愛の内を歩むことができます。
信じる者の内に聖霊はお住まいになり、喜びの泉をわき上がらせて、満たし続けてくださいます。
救いの喜びに満たされ、神をほめたたえ、礼拝者として御前に進み出るのです。
主イエスを愛する者は、主に仕えます。私たちには様々な奉仕があります。どれも必要で大切な奉仕です。
しかし、その中心であり、一番大切な奉仕は礼拝です。いろいろな奉仕は礼拝をささげられるように、そのための備えとしての奉仕と考えることができるのです。「喜び祝い、主に仕え」とは、まさしく礼拝への招きです。
礼拝は、英語では、worshipやserviceという言葉が使われます。Worship serviceと続けます。
礼拝は奉仕だという意味がよくわかる言葉です。
罪を赦され、神の子とされて、永遠の命を喜びながら、神の前に出て仕える、これこそが礼拝なのです。
救いを受けていても、試練にあい、またさまざまな問題に頭を抱えることもあるのでしょう。魂がうなだれることも多くあります。
しかし、私たちの内には救いの泉がコンコンとわき上がり続けています。その泉でいつも魂は潤されて、新しい力と喜びに満たされます。
私たちの天の父は、私たち一人一人について良くご存じです。髪の毛の一本一本を数え、知っておられるのです。
神は、アブラハムに、約束の子が与えられることを約束されていました。しかし、88歳の時に、側室のハガルにイシュマエルが生まれました。
神は約束されたように、やがてイサクをお与えになりました。イサクが生まれたのち、妻のサラは、ハガルとイシュマエルを疎んじて追放します。アブラハムは苦しみましたが、神は「ハガルとイシュマエルのことで苦しまなくてもよい。イサクが約束の子として子孫を広めていくが、イシュマエルも一つの国民の父とする」と語ってくださったのです。
ハガルはパンと水の革袋が与えられて、ベエル・シェバの荒れ野をさまよい行きました。やがて水が無くなりました。荒れ野で水がなければ生きられません。ハガルはイシュマエルを灌木の下に寝かせて、自分は少し離れた所に座り込み、声をあげて泣きました。絶望の涙です。口語訳聖書には、イシュマエルも声を上げて泣いたとあります。
しかし、神は子供の泣く声を聞いて御使いを遣わして、「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と語ってくださいました。
どんなに安心したことでしょうか。そして、ハガルの目が開かれて水のある井戸を見つけることができました。
絶望して、泣いている時には、そこに井戸がある、救いがある、命が助かるのに、大切な井戸を見ることができません。神は先だって救いを用意してくださるお方です。
ハガルは水を革袋に満たして、子供に飲ませました。「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった」(創世記21:20)とあります。
イシュマエルはアラブの祖先となったのです。
天の父は命の水に満たして下さるお方です。信じる者の魂には尽きることのない喜びの泉が湧き続けます。
詩編は、「知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われた羊の群れ」(100:3)と続きます。
私たちが知らなければならないことは、主こそ神、天地を造られ、私たちもこの方によって造られたことです。
私たちは、主イエスの十字架によって贖われ、主イエスの命に繋がる者としていただきました。
私たちは主に養われる羊の群れ、主に属する者です。天の民です。主に魂も体も養われる者です。
主イエスは良い羊飼いとして、羊のすべてを守られるお方です。朝毎に羊の名を呼んで連れ出し、みどりの野に、憩いの水際に導いて下さいます。羊に命を与え、危険から守り、導き続け、良いもので満たしてくださいます。
私たちは、主イエスこそ神であること、私たちを創造されたお方であることを知らなければなりません。
今私たちが直面している、新型コロナウイルスの解決はいつになるのかわかりません。不要不急の外出を避け、非常事態宣言の中で全てを自粛しているのは、命にかかわるからです。感染すると、急激に症状が悪化して死に至る人が多いのです。また、コロナウイルスの治療の為に、そのほかの病気の手当てができずに、死に至る事例が起きています。
まさに「死の陰の谷を歩む」ような状況です。しかし、主にある者は、喜びの賛美を歌いながら羊飼いに導かれて行きます。この方が共におられるから恐れる必要はありません。慰めと力に満たして下さるのです。
私たちは、主のものであり、その民であること、主に養われる羊の群れであることを、改めて感謝したいと思います。永遠の命と喜びを賛美しましょう。そして、喜びをもって礼拝をささげる主の礼拝者として、主の御前に進みゆきましょう。



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