阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年3月7日
「御言葉を聞き、従う
ルカによる福音書6章46-49節

 兵庫県はじめ大阪府、京都府では、非常事態宣言が解除されました。しかし、感染は続いています。コロナウイルス感染が終息したわけではありません。より一層感染防止に努めましょう。
教会では手指の消毒、換気、マスク着用をお願いいたします。阪神チャペルセンターは、3月14日(日)から朝のSSと、礼拝を再開する予定です。お交わりや、愛餐は当面見送ります。ワクチン接種などで対策ができて、何も心配せずにすべての集会、行事が行えるよう、祈り続けましょう。

マタイによる福音書5章1節から、「山の上の教え」が」記されています。主イエスが山に登られて弟子たちをお教えになりました。主イエスを信じる者にとって、大切な必要な教えが凝縮されています。
ルカによる福音書によれば、主イエスが12弟子と共に山から下りて、平らなところに立たれたとあります。
各地からやってきた群衆に御言葉を語り、癒しの業をなさいました。
そして、大切な御言葉をお与えになりました。
主イエスを信じて、人々に対してどのようにしていくべきかが語られています。
聞いていた人々は、この御言葉を理解できたことでしょう。主イエスはだれでも理解できるように教えてくださっています。
貧しい人、飢えている人、泣いている人は幸いであると教えられました。このような状況はだれでも嬉しい状態ではありません。
しかし、主イエスは、神の国はあなた方のもの、飢えている者は満たされ、泣いている者は笑うようになると約束されたのです。
人々に憎まれののしられ、汚名を着せられる者、そのような者は幸いであり、天の大きな報いが備えられている。喜び踊りなさいと教えておられるのです。逆に満ち足り、富み、満腹し、笑っている人は悲しみ、泣くようになるとも教えておられます。
主イエスは、富むことや笑うことを否定しておられるわけではなく、世の富ばかり追い求めることや、自分の喜びのみに生きることを戒めておられるのです。
呪う者を祝福し、辱める者のために祈ることや、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31)という教えは、いつも心にとめるべき御言葉です。
主イエスを信じるとは、ただ主の御言葉を知っているということではありません。御言葉を聞いて悟る、そして従って生きるということです。
ヤコブの手紙には、「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)という勧めがあります。
主イエスによる救いは、誰にでも与えられています。主イエスの十字架により、罪許されて永遠の命をいただくことができました。何も条件は必要とされていません。だれでも信じる者は救われます。
私たちは、主イエスを心に受け入れて神の子とされ、永遠の命を持つ者とされた時、どのようなことを思ったでしょうか。
生まれながらに罪を持ち、闇の中を歩むような生き方から、驚くべき光の中に招き入れられたことに、言葉に言い表せない喜びと感謝に満たされたのではないでしょうか。
救いの喜びが心の奥底からわき上がって来て、生涯主イエスに従っていくことを心に決めたのです。
主イエスを信じる者の道は、主の御言葉が頼りです。祈りながら御言葉を求めて歩み続けます。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)とある通りです。
主イエスを信じていながらも、試練の時につまづくこともあります。救いを疑うこともあるかもしれません。そのような弱さを覚える時にも御言葉が支えとなり、力を与えて正しい道に引き戻してしてくれるのです。
アブラハムには、長い間子供が与えられませんでした。天の父は子供を与えると約束しておられました。
アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時、約束の子イサクが与えられました。長い間待ち望んだ大切な子です。この子を通して、アブラハムの子孫は天の星のように、浜辺の砂のようになると約束が与えられていました。
ところが、神は大切なイサクを焼き尽くす献げものとしてささげるようにお命じになりました。
神は、「あなたの愛する独り子イサク」と言われているのですから、アブラハムがどれほどイサクを慈しんでいるかを知っておられたのです。
ところが、アブラハムは神に問い返すこともなく、出発の準備をして次の日の朝早くイサクを連れて、神が指定したモリヤへと出発しました。
アブラハムは、神がこのような残酷な命令をされるはずはないと、従わないこともできたはずです。しかし、直ちに従いました。
三日目に目的地をはるかに望み、従者の若者二人をそこに残して、アグラハムは火と刃物を持ち、イサクに薪を背負わせて歩いていきました。
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」(創世記22:5)と、従者たちに言い残しました。
イサクは不審に思ったのでしょう。父アブラハムに、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(創世記22:7)と聞きました。
アブラハムは、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22:8)と答えました。
神が指定されたところに着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べて刃物を取り、イサクを献げようとしました。
その時、主の御使いを通して、「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(創世記22:12)と、止められました。
アブラハムが周囲をしっかりと見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムはその雄羊を献げ物としたのです。アブラハムはその所を「ヤーウェ・イルエ」(主の山に備えあり)と名付けました。
この出来事を、新約のヘブライ書では。神の独り子主イエスの死と復活の予表として記しています。(参照へブライ11:19)
神は、アブラハムの信仰がさらに揺るぎないものとなるように、試練を通して訓練なさいました。
マタイによる福音書の「山の上の教え」も、ルカが記した「平地の教え」も、主イエスの結論は同じです。
主イエスの御言葉を聞いて行うということです。主イエスの言葉を聞いて行う人は、地面を深く掘り、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。聞いても行わない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。結果は明らかです。どのような恐ろしい洪水に襲われても土台が岩の上にあれば押し流されることはありません。土台なしなら、家はたちまち倒れ、その壊れ方はひどいと記されています。
私たちの信仰はどこに建っているでしょうか。主イエスという土台、岩の上に立っているでしょうか。それ以上安全なことはありません。
試練に遭っても押し流されることはありません。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Tコリント10:13)とある通りです。
新型コロナウイルスの感染拡大はいつ終息するのだろうか、と祈ります。コロナ禍のために生活がひっ迫することもあります。仕事に支障があったり、感染危機に日々直面します。そのような中にあるからこそ、
より一層神の生ける御言葉に聞き従う生き方を求めていくことが大切です。
日々私たちに語り掛けてくださる神の御声を聞き取る、魂の耳をを大切にし、信仰を持って応答していきましょう。
神は最善をなされるお方です。


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