阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年3月14日
良い方を選ぶ
ルカによる福音書10章38-42節

 新型コロナウイルス感染防止のために1月17日からYouTubeでの礼拝を続けてきました。
教会には集まれませんでしたが、ご家庭で家族と共に礼拝をささげられたことは感謝です。
今日からSSと聖日礼拝を再開致します。しかし、コロナウイルスの感染は続いています。しかも変異したウイルスが広がっています。感染防止に注意しながら集いたいと思います。
残念ですが、お交わりや、愛餐、SS、礼拝以外の集会や行事は休止致します。
コロナウイルス感染拡大第4波などが起こらないよう祈り続けましょう。
これからも礼拝のYouTube配信は続けます。日曜日夜か、月曜日朝には配信できます。教会ホームページ(hanchape.com)の動画サイトから視聴できます。求道中の方々や,GGCのメンバーにもお知らせください。礼拝DVDが必要の方はお申し出ください。準備できます。
久しぶりに教会に集まり礼拝をささげられて感謝します。

 さて、主イエスはベタニアという村の、マルタ、マリア、ラザロという3人の兄弟の家をしばしば訪問されました。エルサレムへ行く途中には、必ず寄られて交わりをなさいました。
ラザロは、後に主イエスにより蘇らせていただいたラザロです。
主イエスはこの3人を深く愛されましたが、3人も主イエスを愛しました。主イエスが来られると心から喜び歓迎したのです。
マルタも主イエスを心から歓迎しました。主イエスがベタニアに来られた時、まずマルタが主イエスを家にお迎えしました。
マルタは主イエスをお迎えしたことが嬉しくて、おもてなしをしようとあれこれと考えていました。
妹のマリアは、主イエスの足元に座って、そのお話に聞き入っていました。周囲のことなど忘れて、心を完全に主に向けて、そのお話を聞いたのです。
ところが、姉のマルタは、いろいろともてなそうとして心を取り乱していました。主イエスを家にお迎えしたのですが、当然弟子たちも一緒であると考えることができます。そうすると、大人数のおもてなしが必要でした。マルタ一人では大変だったと思います。
マルタには、主イエスに喜んでいただきたい、この家にお迎えしたことを心から喜び歓迎していることを表したいという思いが、溢れていました。ところが、心せわしくあわただしくしているうちに、マリアに対して何とも言えない不満と腹立ちを覚えてしまいました。自分ばかりがあたふたと忙しくしているのに、知らんふりで主の足元に座り続けている。腹立たしい気持ちでいっぱいになりました。
そして、その気持ちをマリアに直接向けたのではなく、主イエスに向けたのです。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)と、主イエスに苦情を言ってしまいました。
主イエスは、マルタに対してお答えになりました。その口調は優しいものでした。「マルタ、マルタ」と、二回名前を読んでおられるのは、親しみを込められているからです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:42)とお答えになりました。
ここで主イエスは大切なことを教えておられます。もちろんおもてなしは大事です。
しかし、まず主イエスの御言葉に聞くことからすべてが始まるのです。
主イエスは、必要なことはただ一つだけと教えておられます。本当に必要なことはただ一つ。御言葉を聞くこと。そして、主イエスはマリアは良い方を選んだと言われました。さらに、マリアからそれを取り上げてはならないと、この3点をお教えになりました。
本当に大切なただ一つのことをマリアは選びました。
マリアは、主イエスをおもてなしするために、マルタと共に忙しくすることもできたはずです。マルタがバタバタと心せわしく働いていることも知っていたでしょう。
しかし、マリアは主イエスの足元に座り、御言葉を聞き続けていました。
主イエスは、それをマリアが良いことを選んだと言われました。
私たちの日々は、選択の連続です。小さい事柄から重大な事柄まで選択しながら毎日を過ごしています。
人生の曲がり角に来るたびに、どちらに向かうのかを考える必要があります。それほど大きな事ではなくても、何を食べるのか、何を着るのか、何をするのかなど、選んで生活しています。
一番大切な選択は、主イエス・キリストを受け入れるかどうかという選択です。命に至る道か、滅びに至る道かを示された時、命に至る道を選べる心はなくてはならないものです。
3月11日は、東日本大震災から10年目にあたり、様々な報道がされています。天災とはいえ、未曽有の地震と、想定外の大津波で多くの人が亡くなりました。私たちも26年前に阪神淡路大震災を体験しました。一瞬のうちに命が失われるという考えられない悲劇です。
逃げる間もなく波にさらわれることが多かったのです。不可抗力です。しかし、助かったはずなのに、判断を誤ったということもありました。
被災地のある小学校は、もともと高台にあるので、職員は皆、津波はここまでは届かない、大丈夫だと思ったそうです。校庭に生徒を集めて待機したのですが、校務員さんがいつもと海の様子が違うから、もっと高台に避難しなければと、強く主張したそうです。
それで急いで避難をして全員無事でした。校舎は津波が押し寄せて全壊でした。
一瞬の判断で命が守られたのです。この時誰かが、もっと高い所まで行かなくても大丈夫だなどと判断したら、悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、75歳の時、神の召命を受けて行き先を知らずに、父の家を離れて神の示す地へ出発しました。
神の御言葉を信じて出発したのです。住み慣れた故郷を離れて、行き先に何が待っているのかはわかりませんでした。ただ神の御言葉と導きだけが頼りです。
アブラハムはカナンに入り、そこにまず祭壇を築きました。異郷の地でまず神を礼拝したのです。
アブラハムの旅は続き、ベテルの東の山、西にベテル、東にアイを望むところに宿営しました。そこにも祭壇を築き、神を礼拝しました。
旅を続けながら、行くところでまず祭壇を築いて礼拝をささげたのです。
真の神に祈りをささげ、導きを求め、御声に従う旅でした。
そこには、真の神に対する敬虔な信仰がありました。ですから、神は「神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」(ヘブライ11:16)と記されています。
私たちは、主イエスの十字架によって罪が許され、断絶していた神と正しい関係を持つ者にしていただきました。「神との和解」です。誰はばかることなく「神の子」であることを証しできます。
神の子とされた私たちがなすべきことは、まず主イエスの御言葉を全身全霊を持って聞くことと、礼拝をささげることです。
大きな問題の最中にあって、心騒ぐとき、まず静まり御言葉に聞き、礼拝をささげて取り組むなら、生きておられる神の御手の中にある平安の中に導かれるのです。危機の時、あわてて人の思いだけで突き進むと、判断を誤り行き詰ってしまいます。
コロナ禍にあり、いつ収束するのかわからないような今こそ、「静まって、私こそ神であることを知れ」(詩編46:10)口語という御声に聴き、「あなたは良い方を選んだ」、「あなたは命を選んだ」と、御声をかけていただきながら、ひたすら信仰をもって主イエスに従って参りましょう。



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