阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年3月21日
御言葉によって生きる
ルカによる福音書4章1-4節

 今朝も心を合わせて礼拝できることを心から感謝します。
相変わらずコロナウイルスの感染は無くなりません。今日は東京都などの非常事態宣言が解除されるようです。
季節も良くなり、桜も咲いて多くの人々が外出することになるでしょう。
「リバウンド」などという言葉が聞こえてきます。一度収まったかに見えた感染が、また拡大してしまうということです。感染第4波が起こらないよう祈りましょう。私たちも、一層注意しながら日々の生活を送りたいと思います。

主イエスは神であるのに、人としてこの世に来てくださいました。
それは、十字架によって信じる者すべてに救いを与え、永遠の命を与えるためでした。
30歳で公のご生涯に入られますが、その時、荒野で試練を受けられたのです。
主イエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられて、聖霊に満ちてお帰りになったと記されています。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を、“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカ4:1、2)とあります。
主イエスは、聖霊によって荒れ野を「引き回された」のですが、これは聖霊によって導かれた、あるいは聖霊に導かれて荒れ野を彷徨ったと考えることができます。
40日間厳しい試練の中にあって、断食をされ、その期間が終わると空腹を覚えられました。
空腹はつらいものです。時間ごとに食事ができることは幸いなことです。空腹のままでいたらやがて力を失い、死を迎えなければなりません。
悪魔は、「神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうだ」(ルカ4:3)と誘いました。悪魔は、主イエスが神の子と知っていました。それで、「神の子なら・・・」と言ったのです。
それに対して主イエスは、御言葉をもって答えました。
「人はパンだけで生きる者ではない」(ルカ4:4)とお答えになりました。
この御言葉は申命記8章3節の御言葉です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)と」あります。
この御言葉は出エジプトをしたイスラエルが、荒れ野での40年間の訓練を終えてヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入る時に語られた主の御言葉です。主はモーセを通して御心を語られたのです。
荒野での40年間の訓練は、不信仰の為にヨルダン川を渡ることができなかったイスラエルに、神の御言葉によって生きるということを教えるためだったのです。
荒野での40年間はつらいものだと思いますが、「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」(申命記8:4)とあるように、その訓練は主が共にいて、その御手の中にある訓練だったのです。
私たちにとっても耐えきれない訓練はなく、常に逃れの道が備えられているのです。
主イエスはご自分のことを、「命のパン」と表現されました。
人は生きるために働き、食物を求め生命を維持します。しかし、やがて誰でも年老い、あるいは病になり命を負えます。例外はありません。
紀元前221年即位の秦の始皇帝は、西安近郊の広大な地下に兵馬俑を置きました。等身大の兵士たちです。表情は生き生きとして今にも動き出しそうな軍隊です。そのほかにもリアルな馬車や馬を作りました。また、その墓には、生きている時そのままの生活が営めるように、豪華な宮殿が作られていると、推測されています。
なぜでしょうか。死後も皇帝として生前の姿で君臨できるようにと、永遠の命を願ったからです。
権力と栄華を極めた皇帝であっても、それは空しい願いでした。永遠の命を与える食物や薬、権力はありません。
主イエスは、少年の差し出した大麦のパン5個と2匹の魚で、男の人だけでも5000人を養われました。主イエスの話を聞きに来ている人たちを満腹させてくださいました。
パンくずも12のかごに一杯になりました。お腹が満たされるのは嬉しいことですが、時間がたてば空腹になります。
人々はまた主イエスのもとにやってきました。主イエスを追ってカファルナウムまでやってきました。
主イエスは、その人々に、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ6:26)と言われました。パンが欲しかったのです。
主イエスが奇跡をなさったのは、その奇跡を通して人々が真の神を信じ、崇めるためです。
目に見えるものや、無くなってしまう世のものだけを求めて生きるのではなく、真の神を追い求めて欲しい。この方が与えることのできる真の命を得て欲しいからなのです。
人々は、主イエスにいつもパンを与えて満腹させてくださる王になってほしいと思いました。ローマ帝国は、民衆を満足させて治めるために、パンとサーカスを与えました。ただで娯楽と食物を与えたのです。
人々は、主イエスにローマ帝国と同じようにしてほしいと願ったのです。体の命のことだけで、魂の事には思い至りませんでした。
主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)と教えられたのです。
食べてもなくなってしまうパンではなく、永遠の命のパンを求めるようにと教えたのです。
人々は、主イエスのお言葉の意味が分からなかったので、お聞きしました。主イエスは」、「神がお遣わしになった者を信じること。それが神の業である」と教えました。
主イエスを信じて従う事、これがただ一つの業だと言われました。
ところが、さらに人々は「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(ヨハネ6:30)と質問しました。
主の御言葉をなかなか理解せずに、頑なに目に見える業を求めて、見たら信じると主張したのです。
今、私たちはどのような心で御言葉を聞くのでしょうか。
主イエスが、「私が命のパンだ」と言われたら、「その通りです。信じます」と受け入れる心であるなら本当に幸いです。
主イエスは荒野で悪魔の誘惑に見事に勝利されました。合わせて、私たちに大切なことを教えてくださいました。
それは、命のパンである主イエスと、その御言葉を信じて生きることであり、主イエスの十字架の贖いを受けて、永遠の命をいただくことができたということです。
天の国の民でありながらも、今この世に生きる私たちです。コロナ禍の中に生活し、様々な試練にも会います。
試練の目的は、信仰によって勝利し、生きておられる神を体験することです。神の言葉は真実であることを証しするためです。
私たちは日々の祈りの中で「神の国と神の義を求める」ことを教えられています。そうすれば、この世の必要は添えて与えられます。
永遠の命に至る食べ物の為に働くとは、どのようなことなのかを覚えながら祈り、生活していくときに、大きな主の祝福と導きの中に主の働きに用いられるのです。
私たちは荒野ではなく、主の素晴らしい祝福の中を歩んでいます。
もしそこが荒野であったとしても、主が共におられるのです。
目に見えること信じても信仰ではありません。目に見えないけれども生きておられる主イエスと、その御言葉だけを頼りとしてこれからも進んでまいりましょう、


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