阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年3月28日
「罪人を救うために」
テモテへの手紙T 1章15-17節

 今日から受難週です。主イエスが十字架に向かって歩んでくださり、私たちの為に十字架の贖いを成し遂げてくださったことを、心にしっかりと覚えたいと思います。
主イエスは神であるのに、人としてこの世に来てくださいました。
それは、十字架によって信じる者すべてに救いを与え、永遠の命を与えるためでした。
今日は、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城された日曜日です。人々は棕櫚(なつめやし)の枝をとり、「ホザナ、主の名に」よって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(ヨハネ12:12)と歓迎しました。それにちなみ、棕櫚の聖日と言われるのです。
主イエスはこの週をどのように過ごされたのか足跡をたどると、次のようになります。
日曜日、(棕櫚の聖日)エルサレムに入城される。神殿内を見回り、
夕方弟子たちと共にベタニアへ戻られる。
月曜日、朝、実のないいちじくの木に、これからいつまでも実がならない様にと宣言される。
神殿から商人を追い出し、宮清めをされた。神殿内は礼拝の人々の為の両替や、動物を売る商人たちと、それを買い求める人々で市場のようになっていた。この出来事によっても、祭司長や律法学者たちはイエスを逮捕、死刑にするよう謀ったとあります。(参・マルコ11:18)。
火曜日、枯れたいちじくの木を通して、弟子たちに信仰の祈りの力と、人に対する赦しの大切さを教えられる。
神殿で、祭司長、律法学者、長老たちと、権威について論争する。また、様々な大切な教えをされました。
律法の専門家が、主イエスを試そうとして、律法の中でどの掟が最も重要かと問いました。
主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37−40)とお答えになりました。律法と預言者とは、聖書のことです。聖書のどのような教えも、この二つの教えに基づくと教えられました。
水曜日、ベタニアで香油を注がれる。一人の婦人が主イエスの頭に高価な香油を注ぎました。無駄なことをすると憤る弟子たちに、主は、「葬りの準備をしてくれた」と語り、「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」(マタイ26:13)と言われました。
木曜日、主の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕の日です。
この夜、大祭司カイヤファの庭での裁判、ペトロの否定、大祭司たちは主イエスをローマ総督ピラトの許へ送り、死刑判決を得ようとする。
祭りのたびごとに囚人を赦す慣習に従い、ピラトがイエスかバラバかと問うた時、民衆は「バラバを赦し、イエスを十字架に」と叫んだ。バラバを釈放し、主イエスを死刑とすることになったのです。民衆の叫ぶ声に、暴動を恐れたピラトの処置でした。
金曜日、主イエスは茨の冠をかぶせられ、鞭打たれて十字架を背負われてゴルゴタの丘へ向かわれ、十字架に釘付けられた。
9時に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取られた。アリマタヤのヨセフの持っていた墓に仮埋葬される。
土曜日、安息日。
日曜日、復活の日。墓には主イエスはおられませんでした。
一週間の一連の出来事をたどるとこのようになります。
主イエスがこの世にお生まれになったのは、世の罪を取り除く小羊としてでした。
罪の為に真の神との関係が断たれ、罪の中に滅びの道に向かう人々のことを、イザヤ書は「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」と記しています。(イザヤ53:6)
自分では正しく歩んでいるつもりでも、命の道ではありません。滅びの道を歩むのです。
罪を罪とも知らず、罪の中を歩むのが人間です。主イエスの御言葉を聞いて、初めて罪を知るのです。
人は生まれながらに罪を持っています。エデンの園でアダムとエバが罪を犯したために、人は罪を持ちながら生まれるようになりました。「原罪」です。
神の創造されたアダムとエバはエデンの園で、神との交わりをもち、満ち足りた生活をしていました。園の中で自由にすることが許されていましたが、たった一つだけ、禁じられていることがありました。それは、「善悪の知識の木」からは決して実をとって食べてはならないというものでした。
ところがエバはサタンに誘惑されてその実を食べ、アダムにも与えました。
罪は神に反抗することです。アダムとエバはこの罪によってエデンを追放されますが、この時から人には罪という性質が受け継がれていくのです。
真の神に反抗し、信じることをしない、神との命の交わりが断たれたままになってしまいました。
人は、どんなに自分は良い人間だと思っていても、その心の根は自己中心であり、真の神を受け入れようとしない罪深い者なのです。
神との断絶の中に、心の中には罪が次々を産まれます。自分さえ良ければ、人を押しのけてでも利益を得よう。そのためには人の命さえ虫けらのように思うということもあります。恐ろしいことです。
「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とあります。罪を持っている人間は、霊的命が断たれたという意味なのです。
しかし、この御言葉の後半は、「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)と約束しています。アダムの罪から繋がっている者が、イエス・キリスト、救い主に繋がる時、罪は断たれ、解決し、許されて新しい命を持つのです。
これがイエス・キリストの十字架の身代わりの死と復活の目的です。
主は逮捕され、不当な裁判によって十字架刑を受けました。黙してゴルゴタへと向かってくださいました。
私たちすべての者の罪を贖うためにです。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(Tテモテ1:15)使徒パウロは心からそのように告白しています。
かつては自分は正しい者だと自己義認し、イエスを救い主として信じる人々を激しく迫害しました。自分が神に背いている罪人などとは、夢にも思いませんでした。パウロだけではなく今も多くの人が、自分には罪などなく、善人、あるいは正しい人であると自認しながら生きています。
パウロは復活の主イエスにお会いして、初めて罪を自覚し、悔い改め、生き方を変えたのです。イエス・キリストの使徒として、福音を宣べ伝える生涯となりました。
主イエスが十字架に架って命を捨てられたのは、私たち一人一人が罪から解放されて、キリストの命に生きる者となるためです。
パウロは、自分が憐れみを受けたのは、このような者でも救われて、永遠の命をいただき、キリストの栄光のために働くことができるという手本となるためであると告白しました。
そして、真の神を崇め、頌栄をささげました。(Tテモテ1:17)
心から救いを喜び、神を崇めました。
主イエスの十字架は、私たちが命を得るためでした。罪の根が断たれ、命の根に繋がり、イエス・キリストの命に生きるためです。
主イエスの十字架の前に静まり、心を探り、聖霊に満たされましょう。罪を悔い改め、主イエスと共に歩き始める日々であり、イースターには復活された主イエスを礼拝し、崇めましょう。


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