阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年4月4日
イースター礼拝
復活の朝
マタイによる福音書28章1-10節

 イースター礼拝をともにささげられることを感謝します。
コロナウイルス感染拡大が広がり、変異株感染が増えています。明日、まん延防止等重点措置が適用されるようです。大阪府、尼崎市、西宮市、芦屋市、神戸市が対象となっています。また、宮城県も含まれています。
もうしばらく忍耐をもって感染予防に努めましょう。
コロナウイルス終息の為に祈り続けましょう。
さて、イースターはクリスマスとともに、キリスト教会にとって大切な記念の日です。キリストが復活された日です。
主イエスは、受難週の金曜日に祭司長、律法学者たちによってローマ総督ピラトに引き渡され、十字架に架けられて死を迎えたのです。
ローマの兵士たちは総督官邸で主イエスの服をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨の冠を頭に乗せ、右手に葦の棒を持たせて、その前に膝まずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱しました。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けました。このようにして、主を侮辱してから、外套を脱がせて元の服を着せて、十字架につけるために引き出しました。
十字架に架けられたのちも、祭司長たちは、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27:42,43)と言って侮辱し続けました。
主イエスは、朝9時に十字架に架けられました。弟子たちは逮捕を恐れて逃げてしまったようです。
ガリラヤから主イエスに従ってきた大勢の婦人たちは、十字架の出来事を遠くから見守っていました。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨハネの母マリア、ゼベタイの子らの母がいたとあります。
主イエスは午後3時に息を引き取られました。その日の夕方、アリマタヤ出身のヨセフがピラトを訪れ、主イエスの遺体を引き取りたいと願いました。アリマタヤのヨセフはサンヘドリンの議員で、裕福な者でした。アリマタヤのヨセフは議員でありながら、隠れた主イエスの弟子であり、主イエスの死刑には同意しませんでした。議員でありながら、主イエスの遺体を引き取ることは、勇気がいることでした。
ピラトが許したので、主イエスの遺体をきれいな亜麻布で包み、自分の新しい墓に納め、入り口には大きな石を置きました。夕方から安息日が始まるので大急ぎで墓に納めたのです。
マグダラのマリアと、もう一人のマリアは墓の場所を知っておくためについていきました。そして、そこに残って墓の方を向き座っていました。主イエスが亡くなったことで、悲しみと不安、絶望で心はいっぱいでした。
安息日には葬りもなにもできませんので、安息日が明けたら直ちに墓へ行き、主イエスを本格的に葬るつもりでした。
それで、婦人たちは日曜日の朝早く、香料と香油をもって墓に行きます。墓の入り口には大きな石があり、その石をだれか取りのけてくれるだろうかと心配していました。
主イエスが葬られた墓に行くと、すでに石は転がって墓の入り口は空いていました。マタイは大きな地震があったと記しています。
天使が天から下り、石の上に座っていました。
天使は、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(マタイ28:5,6)と告げました。
婦人たちは急いで弟子たちにこの出来事を知らせようと、走って行きました。すると、主イエスが立っておられて、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)というお言葉があったのです。
主イエスの復活の報告を受けた弟子たちはどうだったでしょうか。これらの話は「たわごと」のように思いました。信じられませんでした。
ペトロは、婦人たちの話を聞いて、墓へ行きましたが、墓には亜麻布しかなかったので、驚きながら帰って行きました。不思議に思いながら帰ったのです。
主イエスは全世界の罪の贖いを十字架で成し遂げられました。罪に繋がれ、滅びの道を行くすべての人が救われるためです。
コリント信徒への手紙T、15章は、復活の章と呼ばれています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことケファに現れ、その後12人に現れたことです。・・・」(コリントT15:3―5)とあります。
最も大切な信仰の土台は、主イエスの十字架の贖いの死と、復活です。
これが福音の中心です。
主イエスは、あらかじめ弟子たちに3回、十字架の死と復活を伝えました。ところが弟子たちは信じることができずに、ペトロは主イエスを諫めて叱責されています。また、2度目に予告された時には、弟子たちが非常に悲しんだとあります。
このように、主イエスの口から直接十字架の死と、復活を聞いていた弟子たちはその御言葉が理解できませんでした。
主イエスの墓に行って、そのお体がないのを見てもわかりませんでした。どうして主の復活が理解できるのでしょうか。
それは、主イエスの御言葉を信じて受け入れる時、初めて魂の内に確信が与えられるのです。知性だけでは理解できません。信仰によってはじめて受け入れられるのです。
主イエスとその御言葉を信じた時に分るのです。
初代教会時代にも、復活を信じられない人々が大勢いました。
パウロはコリントの教会にあてて、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(Tコリント15:13―17)と記しました。
復活がなければ、信仰も宣教もむなしく、信仰は無駄なことであり、主イエスを信じている人は、この世の中で最もみじめな者だとさえ言い切りました。主イエスが復活されなければ罪の赦しも神との和解もなく、依然として罪の中を歩むことになるのです。
しかし、御言葉は高らかに宣言しています。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Tコリント15:20)
誰一人として体の死を迎えない人はいません。コロナウイルスがこれほど騒がれ、対策が考えられるのも、死に直結しているからです。
「死」には誰も打ち勝てず、解決の方法すらありませんでした。
しかし、神は、キリストの十字架の死と復活により、イエス・キリストを信じる者すべてに罪と死からの解放を告げたのです。
いつか天に召される時があります。しかし、キリストにある者にとって、それは輝かしい喜びの時です。
復活の命が約束されているのです。やがて、イエス・キリストと共に復活するのです。
イエス・キリストを信じる信仰は、復活を信じる信仰です。天の輝く体に復活し、勝利の賛美を歌います。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Tコリント15:54,55)。
この世がすべてではありません。主イエスの復活を信じる者は、また、自分の復活を信じます。永遠に心を向けて生きるのです。
私たち信じる者に、復活の命が与えられていることをあらためて確認し、復活の主を崇めましょう。



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