阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年4月11日
あなたがたを遣わす
ヨハネによる福音書20章19-29節

 先週はイースターを祝い、主の復活を感謝して礼拝をささげることができました。
主イエスは十字架で死なれ、三日目に復活されて、信じる者すべての罪の贖いを成し遂げられ、永遠の命を与えてくださいました。
これが福音です。神は主イエスの十字架でアガペーの愛を示してくださいました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
この御言葉の通りに神はその愛を表してくださいました。
主が復活された日曜日の夕方、主イエスは弟子たちがいる家へ来てくださいました。弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて厳重にカギをかけて、家にいたのです。
そこへ、復活された主イエスが来られて、真ん中にお立ちになり、「あなた方に平和があるように」と言われました。
弟子たちは、主イエスが十字架に架けられ、死んで葬られたことを知っていました。婦人たちが主イエスのお体は墓にはないと知らせても、信じることはできませんでした。自分たちも逮捕されて処罰をうけるのではないかという恐れで、心の中に平安はありませんでした。頼りとしていた主イエスはもう死んでしまい、これから自分たちはどうなるのかと、不安で仕方がありませんでした。
そのような中、主イエスは来てくださったのです。「あなた方に平和があるように」と挨拶してくださいました。そして、十字架の釘跡がある手と、槍の跡があるわき腹をお見せになりました。たしかに復活されたのだという証拠です。
そして、もう一度、「あなた方に平和があるように」と言ってくださいました。弟子たちは主イエスにお会いして嬉しく喜びました。
主イエスは弟子たちに大切な使命を与えられました。
それは、遣わされて福音を伝えることです。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)と言われて、息を吹きかけられて、聖霊を受けることと、罪の赦しについてお語りになりました。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)
人に罪を赦す権威はありません。罪を赦すことができるのは、主イエスだけです。弟子たちにも人の罪を赦すことはできないはずです。
主イエスは弟子たちに福音を伝えるという使命をお与えになりました。福音は主イエスご自身であり、罪のない神の独り子がこの世を罪から救い、罪から開放するために十字架で死なれ、復活されたという良いニュースです。
主イエスを信じるならだれでも救われるというニュースです。
救われた者とは、真の神との和解ができた者です。
先に主イエスを信じた者たちは、真の神から離れ、真の神を知らず、信じることもなく、滅びへと向かう人々に救いを伝えます。主イエスは弟子たちのこのような使命を与えたのです。
後にパウロは、このことをわかりやすく記しました。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。
(Uコリント5:17−19)
主イエスはこのコリントの御言葉にあるように、弟子たちに神との和解の福音をゆだねたのです。パウロは、和解の為の奉仕をお与えになったと記しました。
主イエスは弟子たちに、罪の赦しの福音を伝えるために働きなさい、伝えなければ、罪が赦される機会を失い、残ると教えられたのです。
主イエスを信じた者は、誰でも新しく創造された者です。永遠の命の中に生かされるのです。
 その時、その場にいなかった弟子がいました。ディディモと呼ばれるトマスでした。
ちなみにトマスは現在でも欧米でよく名付けられる名前です。双子という意味があります。トマスはギリシャ語名のディディモと呼ばれていたようです。
トマスは他の弟子たちが、イエスが来られたと言っても信じようとしませんでした。トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ)20:25)と、言い切りました。
8日の後にも弟子たちは前と同じようにカギをかけて家の中にいました。一週間前と変わらない状態でした。
そこへ再び主イエスが来てくださいました。今度はトマスも一緒にいました。主イエスは再び彼らの真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。
それから、トマスに向かって、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(ヨハネ)20:27)と言われて、さらに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、続けて言われたのです。
人は弱く、不信仰という弱さを持っています。弟子たちさえそうでした。トマスは「見なければ信じない」と言ったのですが、主イエスにお会いした他の弟子たちも、8日後も前回と同じで家に隠れるようにしていました。
主イエスは弟子たちに向かい、まず「平和があるように」と言われたのです。これは、単なる挨拶ではなく、豊かな祝福を祈る言葉です。神様との和解があります様に、人との和解があります様に。あなたの心に平安がありますように、心と体の健康が守られます様に、お仕事が栄えますよう、霊的な成長がありますように、この世と罪に勝利します様に、といったように、あらゆる祝福の言葉です。
主イエスはこのように不信仰におちいり、不安の中にいる弟子たちに語られたのです。弟子たちはどれほど勇気を与えられたことでしょうか。
さらに、主イエスはトマスをはじめとする弟子たちを、あやふやな信仰や、信じようとしない不信仰から引き戻してくださいました。
主イエスはお召しになった弟子たちを整え、御自分の使命に遣わされるのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)とあるように、主イエスが選び、ご自身のために遣わして下さるのです。
弟子たちは、ペンテコステ以後、聖霊に満たされ、力を尽くして福音のために巡り歩き、宣教しました。激しい迫害にあってもめげることはありませんでした。
主イエスの「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20:29)という御言葉が常に心にあったことでしょう。
私たちも肉眼で主イエスを見ることはありません。しかし、主イエスを信じ、その御言葉によって生かされています。主イエスはたしかに生きておられる救い主です。見てはいないけれど、救いの喜びにあふれています。私たち一人一人も主イエスによって選ばれ、福音の為に召され遣わされています。罪の赦しの福音を告げるのです。御言葉を伝えると、人は必ず救いに導かれます。
罪許され、永遠の命に満ち溢れ、生きておられる主イエスを語りましょう。救いの御業を祈り続け、伝え続けましょう。


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