阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年4月25日
「世にあって輝く」
フィリピの信徒への手紙2章12-16節

  一週間を守られて、きょうも礼拝をささげられることを感謝します。
私たちは、主イエスの御言葉と祈りによってささえられ、信仰の確信をもって歩んでいます。
霊と真をもって礼拝をささげましょう。
主の御言葉は私たちの足のともしび、道の光です。日々御言葉を待ち望み、従うなら、私たちは真の道を進むことができます。
主イエスの十字架の尊い贖いを受けた者は、主イエスに従って生きるという目的と、喜びによって歩みます。
罪の暗闇の道から、驚くべき救いの光に招かれて歩みます。
私たちが主イエスを信じてから、何がどのように変わったか、一人一人が証しを持っています。
「私は変わりました」という証しを皆が持っています。
まず、主イエスを信じた者は、聖書の御言葉を受け入れて従うようになります。
御言葉には、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」(フィリピ2:14)とあります。
人は、心の中にとかく不満を持ちやすい者です。そして、その不満をすぐに口にしてしまうという欠点があります。気を付けないと、どんなに大きな神の恵みを受けていても忘れてしまい、不平を言うようなことになります。
神の大きな御業に与かった事柄については、イスラエルの出エジプトの出来事があります。
ヤコブの息子ヨセフは、兄たちによりエジプトに売られてしまいましたが、その地にあっても、神は共におられました。苦労はしたのですが、神による知恵で、エジプトに飢饉対策をして、宰相にまで昇り詰めました。周辺の国々が飢饉で苦しむ中、エジプトには食料があったのです。
やがて兄たちが食料を求めてエジプトにやってきました。ヤコブは兄たちの心を試したのですが、ユダの執り成しにより心を開き、イスラエルを父ヤコブと共にエジプトに移住させました。
ヨセフは、自分がエジプトにあって、地位を得たのは、イスラエルを救うための神の御計画であったと告白します。
やがて、イスラエルが移住してから長い年月が過ぎて世代も変わり、ヨセフの事も忘れ去られました。
ヨセフの事を知らない新しいファラオは、エジプトで大きな力となっているイスラエルを警戒しました。なんとかその力を弱らせようとして、奴隷として働かせ、生まれてくる子供は生かさないという命令を出しました、過酷な扱いを受けるイスラエルは、呻きと叫びをあげ、神はその声を聞かれて、モーセをたて、故郷カナンヘと旅立たせたのです。
出エジプトの出来事です。
ファラオはなかなかイスラエルがカナンヘ帰ることを赦しませんでした。とうとう過越しという出来事によって、エジプトを去ることを赦しました。ところがイスラエルを軍隊によって追わせ、紅海で追いつきそうになりました。イスラエルは海を前にし、後ろからの軍隊に慌てふためき、モーセに不満をいいます。「一体何のために私たちをエジプトから導き出したのか。荒れ野で死ぬより、エジプトに仕える方がましです」とまで言いました。
モーセはあなた方の為になされる神の業を静まって見なさい」と語ります。
海は二つに割れて、イスラエルは海の底を歩いて渡りました。イスラエルが渡り終えると海は元に戻り、エジプトの軍隊は沈みこんでしまったのです。イスラエルは大きな主の救いの業を体験しました。
生きておられる神が共におられて常に導き助けてくださる。このことを体験したのです。
ところが、カナンヘの旅の途中で、民は事あるごとにつぶやきました。生きておられる神が共におられるのに、すぐに不平を言います。
それでも神は荒れ野でマナを与え、うずらを与えて食べさせ、水を与えて導かれたのです。
実にイスラエルは不平不満の民でした。そして、不信仰の為に40年間、荒れ野での信仰の訓練を受けなくてはなりませんでした。エジプトからカナンまでは、300キロくらいです。一日15キロくらい進めば、20日で入ることができたはずです。ところが40年が必要でした。
つぶやきと不信仰は良いものを生み出しません。必ず訓練を受けることになります。
聖書は、キリストを信じる者たちに、従順であるようにと教えます。
従順とは、御言葉をよく聞き、聞くだけではなく従うことです。自分の思いを通したいのが人間です。しかし、神の言葉に聞き従うときに、祝福があるのです。
聖霊は信じる者の内に住まわれ、御言葉に従うことができるように、整え、導いて下さいます。
聖書は、この世は「よこしまな曲がった」時代であると記しています。
罪の世だという意味です。キリストの救いの手を気にも留めず、それぞれが自分が良しとする歩みを続けるのがこの世です。
人をだましても、自分が金銭を得ればよいと思う人がいます。詐欺が多いのです。犯罪は愛の欠乏から起きることです。詐欺もそうです。
被害を被る人は、架空のもうけ話に乗って失敗するのです。それは現在だけではなく、いつの時代でも起きうることです。
お金を支払うと、コロナウイルスのワクチンを早く受けられるという詐欺もあるそうです。人の弱みに付けこんでいます。詐欺にあう人も、いち早く自分は助かりたいという思いがあります。
自己中心がまかり通るのが、よこしまな曲がった時代です。
その時代に生きているキリスト者は、「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」とあって、(フィリピ2:15,16)このように生きるのだと教えられています。
非のうちどころのない人はいません。欠点や弱さはだれにでもあります。しかし、私たちは神の子です。キリストの十字架で隠され、罪を完全に赦された者です。
サタンは、私たちの足りなさを攻撃してくるかもしれません。しかし私たちは主の十字架に隠されているのです。神は十字架を通して私たちをご覧になり、「しみやしわやそのたぐいのものはなに一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」(エフェソ5:27)として迎えてくださいます。
御言葉は私たちが太陽のように輝く者とは言っていません、「星のように輝き」(フィリピ2:15)と言っています。
人の目には昼間、星を見ることはできません。今は夜中明るいので、星も見にくくなっています。
昔、佐渡ヶ島へ行ったことがあります。東京では見ることのできない天の川をはじめて目にしました。本当に雄大で美しい星空でした。
暗い中だから星が輝くのです。よこしまな曲がった時代だから、星のように輝き、救い主を伝えることができるのです。
自分では光輝くことはできませんが、私たちの内におられる聖霊が光り輝いて下さいます。
御言葉は命の言葉です。御言葉は人を救う力です。生きている神の言葉です。
自分自身がこの御言葉をしっかりと保ち続け、発信し続ける時、必ず神の御業はなされます。
私たち一人一人が用いられるのです。
やがて、キリストの前に立つ時が来ます。その時に、自分自身の信仰の歩みが決して空しいものではなく、豊かに実を結ぶものであったことがわかるのです。
来週からしばらくYouTubeのみの礼拝になります。つぶやきはいりません。すべては主の御手の中にあって、私たちは御言葉を握りしめ、信仰をもって待ち望むなら、神のなさる栄光を見るのです。
コロナウイルス終息を祈りましょう。つぶやくのではなく、神がこの事態をどのように栄光に変えられるのか、信じて待ち望みましょう。


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