阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年5月16日
「神の国の宴会」
ルカによる福音書14章15-24節

 主イエスの御守りの中にあることを感謝します。今日も置かれているそれぞれの所で、心を合わせて礼拝をささげましょう。
非常事態宣言が延長されています。もうしばらくYouTubeでの礼拝を続けます。コロナ感染の事態が変わらないようでしたら、さらに忍耐の時が続くかもしれません。コロナ感染拡大が早期に終息するよう祈り続けましょう。
主イエスはよく様々な人と食事を共になさいました。今日の聖書の個所も食事の席で教えられました。客たちが上座を選ぶ様子をご覧になり、へりくだることの大切さをお教えになりました。
そして、宴会を催す時には、貧しい者や、体や足の不自由な人たちを招くようにと言われました。
宴会に招いてくれても、お返しできないような人々を招くようにと教えられました。
主イエスは「心の貧しい人々、は幸いである。天の国はその人たちもものである」(マタイ5:3)と教えておられます。
私たちは、主イエスの招きに対して何もお返しすることはできません。主イエスの恵み、救いに対して何もお返しができないのに、愛し、導き続けてくださることをしっかりと覚えたいと思います。
主イエスのお話を聞いていた人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ14:15)と言いました。
主イエスは、そこで、もう一つのたとえをお話になりました。ある人が盛大な宴会を計画して、大勢の人をあらかじめ招いておきました。
宴会の始まる時間になったので、しもべを迎えにやると、招かれていた人たちは断り始めました。
理由は、「畑を買ったので見にいかなくてはなりません。」「牛を二頭ずつ五組買ったので見に行かなければなりません」、「妻を迎えたばかりで行くことができません」というものでした。
しもべは帰って、ご主人様に報告しました。すると、主人は怒って「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい」(ルカ14:21)と命令しました。
しもべは、命令されたとおりに出かけて行って、人々を連れてきたのですが、まだまだ席がうまっていません。
主人は、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカ14:23)と、重ねて命令しました。
この時代には、宴会に人を招くときは、あらかじめ知らせておいて、開宴の準備が整うと、もう一度知らせに行くという習慣がありました。
招かれていた人たちは断り始めたのですが、その理由はどうだったでしょうか。盛大な宴会を断らなくてはならないような理由だったでしょうか。しかも、一度目の招待には出席という返事でしたから、もう一度しもべが招きに行ったのです。
畑を買った人と、牛を買った人は「どうか失礼させてください」と言っていて、赦してくださいという気持ちもあったようです。妻をめとった人は、旧約聖書の決まりを盾にとったのか、申し訳ないという気持ちもなかったようです。しかし、旧約の規定は結婚した人の一年間の兵役免除であって、この人には当てはまりません。
3人とも、どうしても宴会に行くことを断らなければならないような理由はありませんでした。
この3人に共通しているのは、招いてくれた主人に対する尊敬の欠如です。この主人がどのような方なのか知らず、知ろうともせず、軽んじていたから断ったのです。
「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7口語)。とあります。真の主人とはどなたかを知ることが、人としての初めであることを覚えたいと思います。
更に、3人とも自分のものが増えました。3人目は妻で人ですが、畑や牛や人をより多く持つようになりました。
それは生活が豊かになることにつながるのでしょう。問題は、3人とも「自分が持つものが多くなった、増えた」ということに気持ちがいっぱいで、心を置いたということなのです。満足したのです。
もう、自分の心が満足したことで宴会には行く気持ちはありませんでした。
自分の生活や、この世の満足だけに心を奪われると、本当に大切なことが見えなくなります。
主人の招待を断っても何も感じないような鈍い心になります。罪の中心である、自己中心が心を支配します。
本当に大切なこととはどのようなことでしょうか。この地上でのことがすべてなのでしょうか。畑も、牛も妻も永遠に続くわけではありません。世のものはいつか失われるのです。この世での生活は「仮住まい」だと聖書は教えます。「この地上に仮住まいする間、その方を怖れて生活すべきです」(Tペトロ1:17)とあって、真の主人、父なる神を畏れて生きるべきことが教えられています。
さらに「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(Tペトロ1:24、25)と教えられていて、主の言葉こそ永遠に続くものであることを深く心に留めて生きるべきです。
本当に大切なこと、価値のあるものを知る、霊の目を持ちましょう。
天の父が下さる永遠の祝福を知る者でありたいと思います。
永遠の祝福を軽んじた人の代表は、イサクの息子エソウでしょう。エソウは、弟ヤコブと双子で生まれましたが、この双子は外観も性格も魂も違っていました。
成人してからエソウは野山を駆け巡り、狩りをして獲物を持って帰ったので、父は喜びました。エソウがお気に入りでした。一方ヤコブは、家(天幕)でおとなしくしていることが好きであったようです。
ある時、一日中狩りをして疲れ、空腹で帰ってきたエソウは、弟が天幕でおいしそうなシチューを作っていることに気が付きます。赤いレンズマメのシチューで、空腹を刺激しました。エソウはそのシチューを食べさせてほしいと、弟に頼みました。ヤコブは兄に、「長子の権利を譲ってください」と言うと、エソウは「ああ、もう死にそうだ、長子の特権などどうでもよい」と言って、たった一杯のシチューとパンで特権を譲ったのです。長子の特権とは、永遠に続く神からの祝福です、本当に大切な、なくしてはいけないものです。それは、神を軽んじることでした。    後にエソウは泣いて祝福を求めましたが、取り戻すことはできませんでした。エソウは世的な俗悪な者と呼ばれてしまうようになりました。
主人は、体の不自由な人や、貧しい人たちを連れてくるようにと言いました。彼らは、本当に何も持っていない人たちでした。自分は何ものでもなく、何も持たないものであることに気づくことは、謙遜に繋がります。
神の前に何者でもない、弱く罪深い者でしかないと気づくとき、人はへりくだることができます。このような者を神は招いて下さった。このような者の為に主イエスは十字架に架り、命を捨ててくださった。感謝しかありません。
神の国の宴会の席はまだまだ空いています。道や路地で招く声が響いています。
私たちは招かれた者であり、また、神のしもべでもあります。
主人である神から遣わされて、あなたのために席が用意されています。盛大な神の国の宴会です。何も持たず来てください。必要なものは備えられています。そのように人々を招くために遣わされていることを覚えましょう。
備えられているのは、永遠の救いと祝福です。神の愛に包まれて歩むことのできる喜びです。
新型コロナウイルスとの戦いはまだ続きそうですが、招かれて神の国の宴席に連なり、神の祝福をいただきながら、また、呼ばわる声として用いられることを感謝します。
神の畑である世は、いつでも刈り入れ時であることを覚えましょう。

今週のみことば
「主を畏れることは知恵の初め。」
箴言1章7節



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