阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年6月6日
「主イエスのまなざし」
ルカによる福音書22章54-62節

 6月最初の主の日を迎えました。きょうもYouTubeで、ご家族と一緒に礼拝をささげられることを感謝します。
非常事態宣言は6月末まで延長されましたが、新型コロナウイルスのワクチン接種も少しずつ進み、兵庫県の感染者も減少傾向にあります。
もうしばらく忍耐して、礼拝再開の時を祈りつつ待ちましょう。
主イエスは最後の食事の席で、弟子たちに大切なことをお教えになりました。
いよいよ主の十字架の時が近づいている、緊迫した時ですが、弟子たちはまだ気が付きません。主イエスは、御自分の時が来たことを、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ)13:36)と言われました。これは、ペトロが主イエスに「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問したことによります。
ペトロも他の弟子たちも、主の言われることを理解することができません。ですから、ペトロは、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)と、意気込んで言いました。
主イエスは、これからご自分がすべての人の為に、十字架の苦難を受けることを示しておられるのですが、弟子たちには分かりませんでした。ただ、主イエスがどこかに行かれると考えたのです。
この席で、主イエスは弟子たちに互いに愛し合う事、永遠の命について、聖霊について、主はすでに世に勝たれたことなどをお教えになりました。
最後に、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)という御言葉で教えを終わらせて、祈りをささげられ、この後、ゲッセマネで逮捕されて、十字架の道を進まれます。
主イエスが逮捕され、大祭司の家に入られる時、ペトロは遠く離れて従ったとあります。
ペトロは、主イエスに「牢屋にでも入り、死んでも良いと覚悟している」と語っていたので、この時も主イエスに従ったのでしょう。ただし、「遠く離れて」ついてったのです。
主イエスが捕らえられ、自分たちもどうなるかわからないような時ですから、主イエスに従いたいけれども、目立たない様に、かなり距離をおいてついていきました。
大祭司の家の中庭には火が焚かれていました。人々がそこに座っていたので、ペトロも座っていました。
ペトロの顔が焚火に照らされてはっきりと見えました。すると女中さんがペトロをじっと見つめて、「この人も一緒にいました」と、言いました。「この人はあの人と一緒にいた人です」と言ったのです。
ペトロは、「わたしはあの人を知らない」(ルカ22:57)と打ち消しました。主イエスの事を、「あの人」と言ったのです。自分とは関係ない人だと、強調しました。
少したってから、また別の人が、「お前もあの連中の仲間だ」と言いました。ペトロは、「いや、そうではない」と打ち消しました。「違う!」と言ったのです。
一時間ほど後に、別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と、言いました。ペトロはガリラヤ出身でしたから言葉はガリラヤ訛りだったのでしょう。マタイによると、「言葉でわかる」と記されています。
ガリラヤ出身の者だから、主イエスの仲間だと指摘されました。すると、ペトロは、「あなたのいうことは分からない」と返事をしました。
人は、返答に困ると、「あなたの言っていることが分からない」という言い逃れをすることがあります。ペトロは、3回主イエスを知らないと力をこめて答えました。
すると、すぐに鶏が鳴きました。
その時、主イエスが振り向いてペトロを見つめられました。
ペトロは、主イエスが「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ルカ22:61)と言われた御言葉を思い出して、庭の外に出て激しく泣きました。
大祭司の裁きの場で、主イエスは振り向いて、ペトロを見つめられました。
主イエスのまなざしは、ペトロに何をお語りになったのでしょうか。
「お前はどのようなことがあっても、死ぬようなことになっても、自分だけは最後まで従うといったのではなかったか」、「私の事を絶対に知らないと言うなど、なんて情けない者か」と、ペトロをお責めになったのでしょうか。
そうではなく、主イエスは、振り返ってペトロを見つめられ、最後の食事の席での御言葉を思い出させたのではないでしょうか。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31)このように、あらかじめお語りになったのです。
ペトロは、サタンによってふるいにかけられ、主イエスを否定するという大変な試練を受けました。
主イエスを否定するということは、主イエスとの関係を断つことです。
永遠の救いも、罪の赦しも、天の御国とも遠い、関係のない者になってしまいます。
ペトロが断ち切ってしまった主イエスとのつながりを、主イエスは保ってくださったのです。
「信仰が無くならないよう祈った」というのは、主イエスとの関係が断ち切られない様に、執り成したということです。主イエスの愛の救いの御手がすでに先に差し出されていました。
ペトロは、主イエスのまなざしの中に主の愛を見ました。ペトロは自分の弱さと罪に、恐れおののき激しく泣きました。
私たちはペトロの姿に、自分自身の信仰の姿勢を見ることができます。
人は誰でも弱さを持ちます。主イエスを信じて救われ、どこまでも従おうと決心していても、試練の中に信仰の挫折を覚えることがあります。
御心に従うよりも、自分の思いを貫きたいという思いをもつようなことがあります。
「私は何があっても主イエスに従います」と言っていながら、足元から崩れるようなこともあるのです。
しかし、主イエスは愛のまなざしを注ぎ続け、「あなたのために十字架に架った」と、語り続けてくださいます。
ペトロが立ち直るためには、主イエスの十字架と復活がありました。
そのように、主イエスは私たち一人一人のために十字架に架り、死んで復活されたのです。
今現在、新型コロナウイルス感染防止の為に、教会での礼拝や集会が休止されています。
これは、大変な信仰の試練です。このような時だからこそ、自分自身の信仰を顧み、また、主イエスに探っていただかなければなりません。
主イエスは、「あなたがたの信仰が無くならないよう祈った」と言われます。
どのような試練があろうとも、それが主イエスと引き離すほどの試練であろうとも、主イエスは、「わたしはあなたのために祈った」と言われ、そして、執り成し続けていてくださいます。
主イエスのまなざしは愛に満ちています。
主イエスの平和(平安)が与えられ、また、「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」
(ヨハネ16:33)
このように宣言された、生きておられる主イエスを仰ぎ見ましょう。
どのような試練も、信仰の挫折も、乗り越え勝利させてくださる主イエスの愛の御手とまなざしを慕い求めましょう。

今週のみことば
「わたしは、決してあなたから離れず、
決してあなたを置き去りにはしない。」
ヘブライ人への手紙13章5節



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