阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年6月13日
「恵みは誰にでも」
使徒言行録2章37-42節

 今日もYouTubeで礼拝しましょう。非常事態宣言が解除されて、コロナ感染者もなくなり、生活が普通に送れるようになって、教会も何の心配もなく集まることができる日を、祈りつつ待ちましょう。もうしばらくの忍耐です。

ペンテコステの日に聖霊が注がれて、ペトロの説教によって人々は悔い改め、主イエスを救い主と信じました。主イエスの十字架の死と復活を受け入れて、その日、3千人が洗礼を受けて、神の教会(エクレシア)が誕生しました。
ペトロは、十字架で死なれて、復活された主イエスこそメシアであり、自分たちはその出来事の証人であると語りました。
心を打たれ、裂かれた人々は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞きました。
ペトロは「悔い改めること」を教えました。
バプテスマのヨハネが世に出てきたとき、人々に語り掛けた言葉は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)でした。
主イエスが公の生涯に入られて、人々に語り掛けたのも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)というお言葉でした。
人々にまず、「悔い改める」ということを教えられました。
悔い改めるとは、自分の心の方向を主イエスに変えることです。
人は生まれながらに罪を持ち、罪を罪とも知らずに日々を送ります。
また、罪がわかっても、どうすればそれを捨てられるのかはわかりません。罪に縛られて苦しむのです。
また、いつも自分は正しく、人が間違っていると、蔑むような心を持つのも人です。
罪の根は、自己中心です。自己中心は傲慢な心に繋がります。また、自己義にもつながります。
主イエスのたとえ話に、ファリサイ派の人と、取税人の祈りがあります。
二人の人が祈るために神殿に行きました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は取税人でした。ファリサイ派の人は、自分は正しい者だとうぬぼれて他人を見下していました。
ファリサイ派の人は、立って心の中で祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11、12)
他の人は罪を犯す人々であると断罪し、自分はそのような者ではないことを感謝し、断食と献げものを欠かすことはないと、胸を張りました。
ファリサイ派の人は、自分で自分を義としているのですから、これは祈りとはいえません。自分の義を主張しているだけだったのです。
一方の取税人は、遠くに立っていました。取税人はローマ帝国の手先としてユダヤ人同胞から税金を不正に取り立てる者として、ユダヤ人の社会には受け入れられませんでした。ユダヤの会堂に献金をしたくても、拒絶しかありませんでした。軽蔑の対象となって生きる者でした。
取税人は、遠くに立ち、目を上げることもできず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と祈りました。
自分が罪人であることを自覚し、罪を悲しみ、神に罪を赦していただきたかったのです。
祈り終えた二人の内、どちらが神の前に赦されて義とされたのでしょうか。人間的には立派と思われるファリサイ人は義とされず、取税人が義とされたのです。
主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)とお教えになったのです。
高慢な者は、そのまま高慢に生きるのですが、神の国は遠いのです。へりくだる者とは、自分自身の本当の姿に気が付き、神の前に罪ある者であることを認める者です。
取税人は、取税人であることで、世から罪人として扱われることより以前に、自分の心の中にある罪がわかって神に赦していただきたかったのでしょう。
主イエスは、どのような罪人をも愛し、受け入れてくださいます。
人が受け入れなくても、主イエスが拒絶されることはありません。
主は正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにこの世に来られました。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)とあります。
主イエスは、自分は正しい者だから悔い改める必要などはないと、思う人ではなく、罪に苦しみ救われたいと願う者を招いて、救うためにこの世に来られたのです。
ユダヤの人々は、主イエスを十字架に架けることが正しいことと思いました。パウロは、クリスチャンを迫害することが正しいことと思いました。
私たちも、これが正しい、自分の考えが正しいと思って生きてきたのではないでしょうか。自分の思いに固執することが正しいのかどうか、考えることもなかったかもしれません。
ペンテコステの日、ペトロを通して語られた御言葉は人々の心を刺しました。頑なだった心が砕かれて、主イエスこそメシア、救い主であることを受け入れたのです。これが悔い改めです。
心を変えて主イエスを信じること、信じて生活が自分中心から、主イエス中心に変えられるのが、悔い改めです。
主イエスを救い主と信じて、心にお迎えし、洗礼を受け、さらに聖霊に満たされることを御言葉は示しています。
そして、この悔い改めと主の救いは、すべての人のためであることを覚えなくてはなりません。
「この約束は、あなたがたにも、あなたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒2:39)と、勧めがなされました。
神の御心はすべての人が悔い改めて救われることです。主イエスの十字架の血汐は、すべての人の罪を赦す力があります。
主イエス以外に罪を赦し、清め、救いを与えられる存在はありません。
神の前に心を低くして祈る時、聖霊は私たちの心を探ってくださり、悔い改めに導いて下さいます。いままでわからなかった罪も示してくださいます。
悔い改めて心と生き方が変わると、新しい希望にいつも満たされます。
内に住まわれる聖霊は、失われない喜びと感謝と、平和に満たしてくださり、主にある永遠の希望を喜ぶことができるのです。
悔い改めて主イエスに従う歩みは、恵みの歩みです。信じる者誰にも与えられる恵みによって生きるのです。
悔い改めて救われた者の心の変化で、一番大きいものは、神を愛することと、隣人を愛する者に変えられたことでしょう。
自分中心であった者が人を愛する者に変えられるのです。ペンテコステの日に悔い改めて、教会を形成した人々の生活は変わりました。
信じた者たちは、心を一つにし、思いを一つにし、自分の持っているものを自分のものだと主張することもありませんでした。
そして、主イエスの十字架と復活を力強く証しするようになりました。
信じる者の群れがそのように整えられていったのは、救い主の愛による一致でした。
新しい命と喜びに満たされると、神を愛し、人を愛する者に造り変えられるのです。
聖霊によって日々キリストの姿に変えられていくのです。
それは、恵みによるのであり、聖霊の御業です。
私たちは、救われながらも自己主張と、自己義認に生きるようなことはないでしょうか。救い主の愛を忘れてしまうようなことはないでしょうか。私の為に十字架に架り、死んで復活され、今生きておられる主イエスの前に、静まり、心を注ぎだして悔い改め、恵みに満たされ、新しい信仰の確信をいただいて歩み続けましょう。


今週のみことば
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
ルカによる福音書5章32節



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