阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年7月4日
「神の子として輝く」
フィリピの信徒への手紙2章2-16節

 久しぶりに教会で兄姉と共に礼拝をささげられることを心より感謝します。
この二か月、教会には集えませんでしたが、それぞれが置かれたところで、YouTubeで礼拝できたことは恵みでした。
しかしもう、これ以上コロナ感染が広がらずに、終息するよう祈りましょう。
三度も四度も教会に集まれないなどということがないように祈りましょう。

 さて、今日の礼拝のテキストの個所をご覧になって、アレッと思われたのではないでしょうか。4月25日の礼拝、しばらく休止になる前の礼拝での聖書の個所と全く同じです。
天の父は、同じ御言葉を私たちにくださいました。耳を傾けましょう。

先週は、隠れたことを隠れた所で見ておられる天の父がどのようなお方かを、御言葉によって確認致しました。天の父は、イエス・キリストの尊い十字架の贖いによって、私たちを子としてくださいました。
私たちは罪深く、父なる神に喜んでいただくことが少ないように思うのですが、それでも天の父は私たちを愛し、子としてくださいました。
だれも交えず父と交わり、祝福と恵みをいただけるのです。
また、だれも見ていなくても、私たちが父の御心を行って行くと、隠れた所で見ておられる父は豊かに報いてくださいます。
私たちが願う前から必要を知っておられる天の父を崇めましょう。
フィリピの手紙は、皆さんもう何度も読み、知っておられる書簡だと思います。
パウロがローマの牢獄で書いた手紙です。パウロは投獄されてもなお喜びに溢れていました。
パウロは、二回目の伝道旅行のおり、小アジアやその周辺の地方に行こうと思っていましたが、道が開かれませんでした。
パウロは、トロアスという町で、マケドニア人の幻を見ました。「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(使徒16:9)
と願う幻でした。マケドニア、現在のギリシャにフィリピの町はありました。この幻を見て、パウロは直ちに出発しました。ヨーロッパ伝道の始まりです。
「私たちを助けてください」といううめきは、魂のうめきです。表面的には何も足りないものはないように生活していても、魂は真の救いを求めて呻きます。
私たちも、「わたしを助けてください。真の救いを伝えてください」という声を聞き、福音を直ちに届ける足を持ちたいのです。私たちの近くに救いを求める人たちはたくさんいるのです。
フィリピでは、紫布の商人リディアや、パウロとシラスが捕らえられていた牢屋番と家族が主イエスを信じました。
そのような人々がフィリピの教会を建て上げて行きました。パウロにとってもマケドニアの実である、愛する教会であったことでしょう。
この手紙で、フィリピの教会の人々に、「キリストの謙遜」が教えられました。
フィリピ2章3節以下には、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考えるようにと教えています。それは、利己心や虚栄心から解放される所から始まります。
また、キリストの従順さから学ぶことができるのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6−8)とあります。
僕としてへりくだり、低い姿勢をとられた主イエスのお姿です。
私たちの模範となるべき存在は主イエス以外にはいません。
12節以下に、「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(2:12)と教えています。
この御言葉は、「従順であること」と、「救いの達成」を教えています。
これは、主イエスを信じて救われた者が、生涯を通して目指すべきことなのです。
主イエスに対する従順は、信じる者の喜びです。
私たちは、自分自身の信仰とその姿勢について考えることがあります。
いつしか、恵みのみ求めているような姿勢になっていることがあるのではないでしょうか。自分の願いがなる様にと祈ることが多くなるかもしれません。
私たちは、いつでも天の父の前に静まって、「私の内をさぐってください」と、祈ることができます。
人は、日常のあわただしさや、さまざまな問題に心がいっぱいになって、躍起になって解決のための祈りをすることがあります。そのような時、本当に天の父との交わりができているだろうかと、自分の祈りについて省みるのは良いことです。
天の父は、その御心を教え、御心を祈り、従う事、従う力を与えてくださいます。
父はわたしたちの内に御心を示し、行わせてくださるのです。これが、父に用いられるということです。従順の実です。
私たちは、主イエスの十字架によって罪許され、神の子とされました。しかし、「恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい」(2:12)とあります。
恐れおののきつつとは、天の父に対する謙遜と従順をあらわします。
私たちの信仰生活は長距離レースにたとえられます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」。(へブル12:2口語訳)。
「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」(Uテモテ4:7)
これらの御言葉のように、主イエスの尊い十字架の贖いによって救われた者は、地上での生涯において、常に従順な姿勢で御心を行い続けていくことが教えられているのです。神は力を与えて達成できると13節では教えています。感謝です。
私たちは、この世においては戦いがあります。試練も受けます。勝利の秘訣は御言葉にあります。
「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(フィリピ2:14)
苦しい時には不平もつぶやきも、口から出ることがあるかもしれません。しかし、同じ口から賛美と、呪いが出てくることがあってはならないとヤコブの手紙には記されています。
「苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」(ヤコブ5:13)と教えています。
戦いの多い世に生きる者は、御言葉によって勝利します。つぶやきを捨てて、すべてを主に頼り、感謝して委ねていく信仰です。
そのような信仰の姿勢が世に対する証しとなります。喜びと感謝の現れる生き方は、神の子の証しです。
この世は、「よこしまな曲がった時代」であるとあります。私たちは、その悪い時代に生きているのです。
そのような世にあって、天の父の子として、清い者とされ、星のように輝くことができるのです。
命の言葉と救いを掲げる者とされています。
主イエスの従順は、謙遜の姿勢です。私たちは主イエスに学び続けて行きたいのです。
主イエスに救われた者だけが、真の救いと命を語り、伝えることができます。
コロナ禍の中での信仰生活は、閉塞感を覚えることがあるでしょう。しかし、神の子はどのような時代であっても、星のように輝きます。
命の言葉をしっかりと保ち、掲げていくことができるのです。
主イエスを見上げましょう。主イエスに学びましょう。主イエスを信じて勝利しましょう。

今週のみことば
「キリストは・・・人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。」
フィリピの信徒への手紙2章7-8節


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