阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年7月11日
「祝福された歩み」
フィリピの信徒への手紙4章4-7節

 今日も教会に集まり、兄姉と共に礼拝をささげられることを感謝します。
相変わらずコロナ関連のニュースが流れています。東京では感染者が増加して、今日から4度目の非常事態宣言が出されるようです。兵庫県では、まんえん防止等重点措置は解除の見込みのようです。
早期のコロナ終息を祈りましょう。
今日も御言葉を待ち望みましょう。御言葉は私たちの命の糧です。
私たちが祝福された信仰の道を歩むためには、主イエスを信じ、その御言葉に従うこと以外に方法はありません。
主イエスは私たちの良い羊飼いとして、私たちを毎日導き、祝福に預からせてくださいます。
私たちは、主イエスを救い主として心に受け入れ、罪から解放されました。救われた者は、その証しを持っています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Tペトロ1:8、9)救われた者の魂は喜びに溢れます。
心の内におられる聖霊の喜びに日々満たされるからです。
ペンテコステの日に約束の御霊が降り、弟子たちの上に聖霊が注がれました。聖霊に満たされた人々は、イエスこそ救い主であり、メシアであることを大胆に伝えました。信じて救われた人々は、教会を形成しました。
主イエスを十字架に架けた、ファリサイ派や、大祭司たちは当然権力で弟子たちを押さえつけようとします。
主イエスの名を語るな、その名で教えるなと、脅迫し、投獄し、むちうち、何としても福音を語らせまいとしました。
信仰と聖霊に満ち溢れて、教会の執事として活躍したステファノは、捕らえられましたが、議会でとうとうと主イエスこそ救い主であること、その救い主を大祭司たちは十字架に架けたことを語りました。そして、石で打たれて殉教しました。
ステファノはひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と、大声で叫びました。主イエスの十字架上での祈りと同じでした。
その日から、エルサレム教会に大迫害が起こり、使徒以外はみな散らされて行きました。
エルサレムに住むこともできず、知らない所へ流れ行くことはつらいことであったと思います。しかし、その人々は、町々、村々に福音を伝えながら巡り歩いたのです。
迫害は、福音が拡大する機会となったのです。
なぜ、嘆くのではなく、つぶやくのでもなく、主イエスを伝えることができたのでしょうか。
それは、主イエスの喜びが心に満ち溢れていたからです。
フィリピの教会への手紙は、他の手紙、エフェソ、コロサイ、フィレモンと同様、パウロがローマの牢獄に囚われているときに記した手紙です。テモテTと、Uも獄中からの手紙です。
牢に囚われていても、パウロの心の中の喜びは誰にも奪うことはできません。この手紙の中で、何度も「主にあって喜ぶ」ことが教えられているので、喜びの書簡と呼ばれています。
人は、生活を送る中でさまざまな問題に行き当たります。不安な思いが心を占領して、あれこれと思い煩うことがあります。
そのような時こそ、信仰に立つことができるチャンスなのです。
天の父はすべてご存じで、最善を用意してくださっています。
ダビデは、サウル王に追われ、命を狙われて苦しい逃亡の日々を送りました。何度も、もうだめかと思うようなことがありました。サウル王はダビデを憎み、執拗に命をとるため兵力を動員して追い回したのですが、サウルの息子のヨナタンは、ダビデの味方でした。
 ある時、ダビデはサウル王が自分を討ち取るため出陣したことを知りました。そのとき、王の息子ヨナタンがダビデの許を訪れました。
そして、ダビデに、神を頼るように励ましたのです。「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(Tサムエル23:17)と、ダビデに語りました。ヨナタンは神に対する従順と、謙遜を持った人で、神の御計画を信頼していました。
サウル王は、自分は神に対する不従順で退けられたのに、次期王として神が選び、油を注がれたダビデの命を狙い、追い詰めました。神に対する反抗ですが、このような自分の姿に気が付きませんでした。
サウルの兵が迫り、ダビデは、サウルの兵を引き離そうとしましたが、今にも捕らえられてしまいそうでした。
しかし、思いがけないことが起こりました。
サウル王のもとに、「ペリシテが国内に侵入した」という知らせが入りました。一大事です。サウルはダビデを追うことをやめて直ちに引き返しました。
そのようなことがあって、その場所は「分かれの岩」、あるいは「逃れの岩」と、呼ばれるようになりました。
私たちが今にも沈み込み、助けの手が見えないような時にも、すでに想像が及ばないような、神の助けの御手が差し伸べられているのです。
主イエスは信じる者に、喜びと平和を与え続けてくださいます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(フィリピ4:4、5)
どんな時も失われることのない喜びを持ち、主イエスを信じたことでいただける、寛容な、思いやりの心をすべての人に知られるようにと、教えています。喜びと、思いやりの心は、主イエスを証しすることなのです。「どんなことでも思い煩うのはやめなさい」(フィリピ4:6)と、教えています。
主イエスは、自分の命の事で、体の事で、生活の事で思い悩むなと教えてくださいました。
「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ27−33)そのように約束しておられます。
私たちが大切にしなければならないことは、天の父との正しい関係です。
主イエスの十字架によって罪が赦され、天の父との和解がなされました。祈りの中にすばらしい交わりをすることができるのです。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」
これこそ、神との交わりのすばらしさです。どんなことも打ち明けて祈ることができるのです。
思い煩いを振り捨て、感謝を込めて祈る日々は素晴らしい喜びに溢れた日々です。
幼子が一点の疑いもなく両親を信頼するように、天の父を信頼し、深い交わりの時を持ち続け、勝利の確信をもって立ち上がることができます。勝利の証しは心にしっかりと植え付けられます。
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:7)
この世のものではない、キリストの平和が私たちの内に満ち溢れ、守ってくださいます。この世に勝利し、私たちにも信仰の勝利を与えてくださる主を崇めましょう。

今週のみことば
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
フィリピの信徒への手紙4章4節


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