阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年7月18日
「神の家族とされた」
エフェソ2章19−22節

 礼拝をささげられることを心より感謝します。
7月23日からは東京オリンピックが開催されますが、東京では、コロナウイルス感染のリバウンドが報道されています。
大阪でも感染者増加が心配されています。ウイルスは人から人へと感染しますから、人の行き来が増えれば感染も広がります。ウイルスは、デルタ株というウイルスに変わってきているようです。
若年層にはワクチン接種が遅れているようです。ワクチンの供給も遅れているようです。気を抜かずに感染防止に努めましょう。
コロナウイルス感染終息を祈りましょう。
エフェソは、現在のトルコ、イズミールの近郊に遺跡が残っています。古代のエフェソには、ギリシャ神話の女神アルテミスの壮麗な神殿があり、人々はアルテミスを信仰していました。アルテミスは狩猟と豊穣の女神とされていました。
また、アルテミスを商売にする人たちもいました。アルテミスの神殿の模型を銀で造って職人たちに大きな利益をもたらせていた、銀細工師のデメトリオという人が、「この仕事で自分たちはもうけを得ているのに、パウロが手で造ったものなどは神ではないと言って、多くの人々をたぶらかしている。自分たちの評判が悪くなり、アルテミスの神殿もないがしろにされ、全世界があがめるアルテミスの威光さえも失われる」と人々を焚きつけました。激高した人々はパウロの同行者を捕らえて、エフェソの劇場になだれ込み、「エフェソのアルテミスは偉い方」と叫び続けました。パウロの弟子たちはパウロが劇場に入るのをとどめました。    あまりの大混乱に、そのうち人々は何のための混乱かさえも分からなくなるほどでした。
エフェソの書記官が「アルテミスの威光を知らないものはいない、これを否定することはできない。デメテリオたちは、正式に議会に訴えるべきであって、これ以上すると暴動に問われる恐れがある」と、人々を説得し、やっとこの騒動が治まったのです。
このようにエフェソは偶像崇拝の盛んな町でした。
イエス・キリストを知らず、偶像を崇拝する人々は、どのような人たちでしょうか。
「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(エフェソ2:12)
とあるような姿だったのです。真の神であるイエス・キリストを知らず、キリストの下さる永遠の祝福とも命とも無関係でした。
真の救いから遠かったものを、主イエスはその十字架で贖い、神と和解させて、神の子、神の家族としてくださいました。
聖書は、家族を大切にすることを教えています。テモテへの手紙Tには、教会でのやもめについての教えの中に、「やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです」(Tテモテ5:4)とあります。
家族を大切にすることは神の御心にかなう事であり、喜ばれることなのです。また、夫と妻に対しては、「互いに仕えあう事」が示され、
子供たちには「両親を敬う事」が教えられています。この教えには祝福が伴います。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」(エフェソ6:3)
父なる神は、私たちの家族にいつも目を注がれているのです。家族の救いと祝福を常に祈りましょう。
エフェソの人々が偶像礼拝を熱心に行い、異邦人と呼ばれていたように、かつては私たちも同じような生き方をしてきました。
日本人の神観念は、非常にあいまいです。子供が生まれると、神社に詣でて、おはらいをしてもらいます。結婚式はキリスト教式でする人が多いのです。ブライダル専用のチャペルがホテルなどに設けられていて、そこでの挙式が好まれます。葬儀はほぼ仏教で行われて、葬儀の時に自分の家の宗派と寺院を自覚することもあります。
正月には、神社に初もうでに出かけ、一年の無病息災を祈ります。
このように、真の神とは無関係のまま生きてきました。
しかし、神は救いの御手を差し伸べ続けてくださいました。主イエスの尊い十字架により、罪を赦していただき、真の神を父とお呼びできる者にしていただきました。
神の家族とされたのです。
その土台は、使徒や預言者であり、キリストはかなめの石だと教えられています。
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(エフェソ2:19−21)
かなめ石とは、石でアーチを作り上げる時、両側から積んでいき、最後に一番高い所にくさび型の石を打ちこみます。この石を打ちこむことでアーチは建て上げられます。大切な石です。
神の家族はこのようにキリストによって立つのです。神の家族が組み合わされて、神の神殿として成長していきます。
神の家族は心を合わせて礼拝をささげます。礼拝は信仰と生活の中心となるものです。
神の栄光の為に生かされていることを確認し、自分自身を神にささげることが礼拝です。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)
旧約時代には、燔祭、すなわち全焼のいけにえがささげられました。犠牲となるのは、雄牛、御羊、雄山羊であり、動物が買えないような人々は鳥をささげたのです。
幼子、主イエスが神殿にささげられた時には、両親は鳥をささげたとあります。家鳩のヒナ二羽か、山鳩一つがいが、ささげられました。
これらのささげものにはどのような意味があったのでしょうか。
完全な献身と、服従という意味があるのです。ですから、礼拝は神に対する従順と献身であることを覚えなくてはなりません。
礼拝をささげる為には、霊的な準備がいります。よく祈り、魂を整えることです。それは、直前の祈りだけではなく、日常の祈りです。
礼拝をささげる為にどのくらい祈って備えているか、省みたいと思います。真の神に礼拝をささげる者とされたことは、すばらしい祝福です。
また、神の家族は互いに愛し合うことが教えられています。
御言葉は、「互いに愛し合うこと」を繰り返し教えています。
神は惜しみない愛を注ぎ続けてくださいます。愛されている者は愛する者となります。互いに愛し合うことが信仰の証しであり、神の家族の証しなのです。
「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことはなんでもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」
(Tヨハネ3:21―23)
主イエスは、「受けるより与える方が幸いです」と教えました。神の家族は、愛は求めるものではなく、与えるものであることを知っています。自分の内に惜しみなく与えていく愛を育てて行きましょう。
私たちは、キリストの体である教会に召された神の家族です。
互いに仕え合い、愛し合い、支え合い、励まし合い、慰め合うことができます。
また、互いに祈り合うことができるのです。
神の家族はキリストにあって成長し、一つとされ、聖霊によって神の神殿とされるのです。
聖霊によって、敬虔、愛、謙遜、御心に従う心を与えていただき、天の資産を受け継ぐ者であること、神の子、家族であることを深く思いめぐらし、ふさわしい歩みがなされるよう祈り続けましょう。

今週のみことば
「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」
Tヨハネの手紙3章23節


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