阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年7月25日
「キリストの体・教会」
エフェソの信徒への手紙1章20-23節

 7月第4週の礼拝をおささげ出来ることを感謝します。
猛暑が続いています。体調を崩さないように祈りましょう。
コロナウイルス感染も広がっています。感染防止に努めましょう。
さて、私たちは主イエスを救い主として心に信じて、バプテスマを受け、永遠の救いをいただきました。
かつては、罪の中を生き、真の神を知らず、神の下さる永遠の命とも祝福とも遠い者でした。しかし、神は私たちを愛し、癒し、救って下さいました。
主イエスの尊い十字架によって罪許され、真の神を父とお呼びし、なんの妨げもなく近づき、祈ることができるようにしていただきました。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)とあります。
父なる神が、私たち一人一人を召され、神の子、神の家族にしてくださったのは、恵みによります。
「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ21:22−23)
聖書で教会と訳されている言葉は、ギリシャ語のエクレシアという言葉です。エクレシアとは、召された人々という意味です。神に召された人々の群れがエクレシア、教会です。
御言葉は、キリストと教会の関係を、頭(かしら)と体というように示していま
す。
教会とは、キリストを頭(かしら)とした、キリストの体と考えることが正しいのです。私たち一人一人は、キリストの教会を建て上げるために召された者たちです。教会を建て上げるための力は神からのもので、私たちの力ではありません。
体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が自分は手ではないから体の一部ではないと言っても、一部に違いはないのです。耳が私は目ではないから体の一部ではないと言っても、体の一部に違いありません。
目が手に向かってお前はいらないと、言うことはできません。頭が足に向かってお前たちはいらないとは言えません。必要なのです。
「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(Tコリント12:18)とあるように、それぞれの肢体を置かれて、キリストの体を建て上げておられるのです。
「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
(Tコリント12:22)とも教えられています。
キリストの体を建て上げていく力は神が一人一人に与えてくださいます。その力を一人一人が確信して用いられていくことが大切なのです。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Tコリント12:26)とあります。
キリストの体であることをいつも覚えることが必要です。教会はキリストの命によって生かされているからです。
御言葉は主イエスをどのような方と紹介しているでしょうか。
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1:20,21)とあります。
キリストは、生きておられて、この世と、来るべき世のどのような権力、権威も及ばない、最上の権威を持っておられる方です。
「すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」
(エフェソ1:22)とあって、これ以上ない権威を持っておられるキリストが教会に与えられたのです。これは、考えられないくらい素晴らしいことなのです。
ペンテコステの日に聖霊が注がれて、キリストを信じる者たちの群れ、エクレシアが誕生しました。
救われた人々は、心を一つにして礼拝をささげ、喜びと賛美をもって教会に集いました。誰一人として自分の持ち物だと主張することなく、共に喜びを持って生活しました。
そのような姿は民衆から好意をもって受け止められて、救われる者が日々起こされて行きました。
ところが、迫害のために、人々は散らされて行きました。散らされて行った人々は、福音を伝えながら巡り歩きました。
遠く、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きました。このころまで、ユダヤ人以外に福音は伝えられませんでした。
シリアのアンティオキアで、ギリシャ語を話す人々に福音が伝えられました。主はこの人々を救って下さり、多くの人々が主イエスを信じました。
ここに異邦人のエクレシア、教会が建て上げられました。アンティオキア教会の事がエルサレム教会に伝えられたので、エルサレムからバルナバが遣わされました。バルナバは、「慰めの子」と呼ばれ、聖霊と信仰に満たされた、献身的な人でした。
バルナバはアンティオキア教会の喜びに満ちた様子を見て、大変喜び、「固い決意をもって主から離れない様に」と信徒を励ましました
さらに人々が救われて行きました。そこで、バルナバはサウロを探しにタルソスへ行き、パウロをアンティオキアへ連れてきました。
二人は心を合わせて、一年間アンティオキア教会で教えました。
このアンティオキア教会で、イエス・キリストを信じる弟子たちがクリスチャンと初めて呼ばれるようになりました。
クリスチャンという言葉は、「キリスト者」という意味で、キリストに属する者という意味があります。
アンティオキアの人々が、教会に熱心に集い、キリストを信じる者たちを揶揄する意味でこのように呼ぶようになりました。
しかし、当のクリスチャンと呼ばれるようになった人々は、救いの喜びに満ち溢れて、やがて自分たちも「クリスチャン」と名のるようになりました。
アンティオキア教会は、宣教する教会でした。
礼拝し、断食していると、聖霊が「バルナバとサウルをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」(使徒13:2)とお告げになりました。
そこで教会は断食と祈りをして、バルナバとパウロに按手して祈り、宣教の旅に送り出しました。
パウロの宣教旅行は3回行われましたが、いずれもこの教会が祈って送り出しました。
宣教の働きはどの時代にも教会の働きとして継続し、やがて私たちも福音を聞いて、救われて、エクレシアに召されて今があります。
「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)
「すべてにおいてすべてを満たす方」が教会に与えられている。
この御言葉によって、天の父がいかにキリストの体である教会を愛し、キリストの権威に満たして下さっているかがわかります。
キリストの体である教会は、あらゆる体の節節、部分部分が組み合わされ、補い合うことによって成長していきます。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)とあります。
聖霊によって、教会がいつも一つであるように、祈りましょう。自分という体の肢体が本当に大切であることを覚えましょう。
キリストの御体を建て上げていくために、賜物が用いられるよう祈りましょう。キリストご自身にさらに近づき、そのお働きの為に互いに用いられるように祈りましょう。


今週のみことば
「キリストにより、体全体は、
あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、
結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、
自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」エフェソの信徒4章16節


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