阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年8月1日
「イエスを見つめながら」
ヘブライの信徒への手紙12章1-2節

 猛暑の日々ですが、守られて今日も礼拝をささげられることを感謝します。
今、昨年から延期された東京オリンピックが開催されています。今年は2021年ですが、オリンピックは「東京2020」と称するそうです。あとあと、ややこしいかもしれません。
古代、競技大会は盛んで、オリンピア大会、コリント大会、ネメア大会、デルフイ大会が、4大大会として有名です。
BC776年当初の競技は、1スタディオン走(91m)の短距離走のみでした。競技者は91mをいかに速く走るかと、訓練したことでしょう。その後、2スタディオン走や、短距離、幅跳び、円盤投げ、レスリングを一人で行う競技や、マラソンなどが加えられていきました。
古代オリンピックに関していえば、オリンピックはAD361年に終わりました。
その後、1896年に近代オリンピックを開催するようになり、アテネで第一回が開催されました。IOC委員会が設立され、クーベルタン男爵の名前は有名です。
パウロは、コリントに伝道し、滞在しました。コリント大会を目にしたり、聞いていたのでしょう。
 ヘブライ12章1節には、「すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、勧められています。走り抜くということは、信仰生活を完走するということです。
主イエスの尊い十字架で罪を赦されて、永遠の命をいただいたのですから、救いの喜びに満たされて、賛美しながら生涯を送れるのは素晴らしいことです。しかし、信仰の戦いもあります。それは、外部からの圧力や、迫害を考えることができます。
また、内なる戦いがあります。
主イエスが話された種を蒔く人のたとえ話を思い起こすことができます。道端に蒔かれたとは、御言葉を聞いても悟らなければすぐに悪い者が来て心の中に蒔かれたものを奪い取る。石だらけの所に蒔かれた者は、御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは続いても御言葉の為に困難や迫害が起こるとすぐにつまずく人である。茨の中に蒔かれた人とは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑の為に実を結ばない人である。
良い土地に蒔かれたとは、御言葉を聞いて悟る人であり、100倍、
60倍、30倍の実を結ぶと教えておられます。
 主イエスはこのように教えておられるのですが、福音を受け入れてもすぐに世の中の事で心がいっぱいになったり、困難や迫害に負けたりと、自分との戦いが続きます。
聖霊の助けがなければ信仰の歩みは難しいのです。
走るためには、余分なものはかなぐり捨てなくては走れません。御言葉は、「すべての重荷」、「絡みつく罪」を捨てて走ろうと教えています。
いらない重荷を背負っていることはないでしょうか。悪賢くからみつく罪は脱ぎ捨てなくては走れません。
 私たちは、主イエスを信じて罪を理解するようになりました。
主イエスを受け入れる以前は、罪の為に苦しんでも、それが罪であることが分かりませんでした。罪は心の中の罪だからです。
日常生活の中での問題や苦しみを、重荷にたとえることができます。仕事の上での問題、人間関係、そのほかさまざまな問題を抱えることがあります。自分の能力以上のものを任されたと思って、苦しむことがあるかもしれません。主イエスは私たちの苦しみや悩みをすべて知っておられます。いつも、どこでも助けの手を差し伸べていてくださいます。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Tペトロ5:7)とあるように、
神にすべてを委ねることが最良の方法なのです。
重荷のもう一面を考えると、罪の重荷と考えることができます。
主イエスの十字架で罪を赦していただいたのですが、罪との戦いはあります。
罪は、あわよくばクリスチャンを罪に引き入れ、キリストから引き離そうと狙うのです。私たちは常に心の目を覚ましている必要があります。
ダビデは、ある時罪に負けました。
美しい人妻バト・シェバを見初めて王宮に召しだしました。
バト・シェバが身籠ったので、それをごまかそうとして、戦場にいるバト・シェバの夫ウリヤを家に帰らせようとしました。しかし、ウリヤは戦場で戦っている同胞を思い、家に帰ろうとせず、王宮の門で過ごしました。ダビデはウリヤを歓待し、何とかして家に帰らせようとしましたが、どうしても帰りませんでした。それで、指揮官にウリヤを戦場の最前線に出して、兵を引くようにと命令を出しました。ウリヤを戦死させよという手紙を、ウリヤに託したのです。ダビデとは思えない非情さです。ダビデは、自分の罪を何とか隠そうとして、このようなひどい罪に罪を重ねました。
 神はすべてをご存じです。預言者ナタンを遣わして罪を指摘しました。
ダビデは悔い改めました。
「わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」(詩編32:5)
ここで、「罪」、「咎」、「背き」という言葉が使われています。背きの罪とは、文字通り、神に背を向けることです。神も神の恵みも知りながら、あえて背を向けるという罪です。
咎とは、道徳的な罪をあらわしています。ダビデは道徳的に赦されない罪を犯しました。「罪」とは、道を外すこと。罪は的を外すことです。
 罪を言い表さなかった時は、神の御手が昼夜重く、魂は呻き続けました。ひとたび罪を告白し悔い改めるなら、罪は赦されたのです。
心を見張らないと、どのような信仰を持っていたとしても、簡単に足をすくわれることがあるのです。
宗教改革者ルターは、教会が贖宥状を売り出して、それを買えば完全に罪を赦されて天国へ入れると教えたことに対して、信仰による義認を主張しました。
「キリストが『信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲した』」、また、「真の悔い改めが罪と罪科の完全な赦しである」と強力に唱えました。キリストは悔い改める者を赦して下さるお方です。
自分の生涯はこの世で一度きりです。その生涯を忍耐強く走り抜きたいのです。走り抜くためには、信仰の創始者、完成者であるイエスを見つめながら走ることです。イエス様から目を離さないことです。
ちょうど、競技大会の選手が走り抜くように、走るのです。短距離競争より、持久走になるかもしれません。
グランドの観覧席には、信仰の生涯を走り抜いた証人たちが雲のように取り囲んでいます。ヘブライ11章に、その人たちの名前が挙げられています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、モーセ、ラハブ、ヨシュア、ギデオンなど、もっと多くの人を語るなら、時間が足りないとあります。(ヘブライ11:32)
信仰の生涯を全うした証人たちが激励しています。
パウロは、コリントの信徒へ、コリント大会の様子を思い浮かべながら励ましました。
「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは、一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技する人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(Tコリント9:24−25)
主イエスから目を離さないで走るなら、必ず最後まで走る抜けることを信じます。
私たちの信仰のコースは、まっすぐではなく、障害物があちらこちらに置かれているようなコースかもしれませんが、私たちは恐れません。
主イエスがおられるからです。
最後まで走り抜くなら、しぼむことのない義の栄冠が待っています。
誰にも備えられている栄冠を目指して走り抜きましょう。

今週のみことば
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、
 信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」
テモテへの手紙U4章7-8節


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