阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年8月8日
「持っているものをあげよう」
使徒言行録3章1-10節

 主イエスの恵みにより、日々生かされ、今日も一緒に礼拝をささげられる事を心より感謝します。
ペンテコステの日に聖霊が注がれ、悔い改めて主イエスを信じる者たちが3千人も起こされました。教会、エクレシアが誕生したのです。
救われた人々は喜びに溢れて、心を一つにして賛美と祈りと礼拝をささげていました。このような姿は民衆全体から好意を寄せられて、毎日主を信じる者が仲間にいきました。初代教会の姿です。
当時のユダヤの人々は、朝9時、昼12時、午後3時に神殿で礼拝と祈りをささげました。
ペトロとヨハネは午後3時の祈りの為に神殿に上りました。クリスチャンたちは、ソロモンの廊に集まって祈っていたようです。
神殿の美しい門の所には、生まれながらに足の不自由な男の人が、
運ばれてきて、毎日物乞いをしていました。
この人は、神殿に入ろうとしているペトロとヨハネを見て、施しを乞いました。
神殿の美しい門は、神殿の東にある門で、そこからまっすぐに聖所に行くことができました。人々が大勢行き来する場所なので、この人は毎日この場所に置かれたのでしょう。当時、障害をもった人は、この門から先には入ることが許されていませんでした。
この時代、障害を持つ人は生きにくい時代でした。当時のユダヤは、障害を持つ者は、先祖か誰かが罪を犯したためと考えたからです。
ヨハネによる福音書9章に、主イエスが生まれつき目の不自由な人を癒された出来事が記されています。
主イエスは通りすがりに、生まれながらに目の不自由な人を見かけました。すると弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」
(ヨハネ9:1,2)と質問しました。主イエスの弟子たちも、障害の原因は親や自分の罪の為と思っていたのです。
主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と、明確にお答えになりました。
罪の結果ではなく、神の御業が現れるためと教えておられるのです。
神の業、神の栄光が現れる。この人は、生きておられる神を体験し、霊と肉の目が癒されるという体験を通して、多くの人々に生きておられる神を証しすることができるのです。
さて、生まれながらに歩くことができなかった人の人生は悲しいものだったでしょう。生まれてから一度も自分の力で立って歩くことができず、毎日の生活のすべてに人の手が必要でした。
生きていくために働くこともできません。ですから、物乞いをするほか生活の手段はありませんでした。
礼拝の為に神殿に入りたくても、それもかなわない生活でした。心も魂も体も思うように動かず、希望のない生き方をするほかありませんでした。
美しい門に座って、いくばくかの金銭を恵んでもらって生活をするだけの毎日です。まったく希望はありません。
それでも、この人は、ペトロとヨハネがお金を恵んでくれるかと思い期待しました。ところが、ペトロ達は、「わたしたちを見なさい」と言いました。彼は何か貰えるのだろうと思って、ペトロ達を見つめたのです。
すると、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6)と宣言し、右手を取ってこの人を立ち上がらせました。
ペトロ達は、金銀を持っていませんでした。しかし、大切なものを持っていました。それは、イエス・キリストご自身とその権威です。
金銀を施しても、それは今日の糧として費やされなくなってしまいます。一時的な助けにすぎません。
ペトロ達が与えたのは、金銀とは比べ物にならない、これからの一生にかかわる救いでした。
ペトロやヨハネにも人を癒し、救う力はありません。イエス・キリストの名によるのです。
主イエスは、人の救いの為に十字架に架り命を捨ててくださいました。三日目に甦り、今生きておられる救い主です。
主イエスは、十字架の死に至るまで従順と謙遜の限りを尽くされたお方です。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:9,10,11)とあるように、イエス・キリストは、すべての権威の上にある方です。イエスの御名には何ものにもまさる権威があります。
私たちは、イエスの名によって祈ります。これは、イエスの権威により、祈ることです。
何者でもない私たちですが、私たちも主イエスの権威によって祈り、イエスの名により福音を伝えることができます。
新型コロナウイルスの拡大は止まるところを知らず、急速に感染者が増えて、感染しても入院できないケースが増えて、自宅療養をしなければならない状態になりました。
兵庫県には非常事態宣言はまだ出されていませんが、大阪がもっとひどい状態になり、兵庫県でも感染が広がれば、4度目の宣言が出ることも考えられます。
私たちも、いつどこで感染するのかわかりません。感染力の強いデルタ株が主流になっているようです。
ワクチンの接種が済んでいても、感染しないわけではありません。感染しても重症化が防げるという事らしいです。本当に無力さを覚えます。
しかし、どのような状態の中にあっても、私たちは希望を持ちつづけることができるのです。イエス・キリストという救い主により、救われて永遠の命をいただいたという希望です。
私たちは、癒しの為に祈ります。癒しだけではなく、主イエスによる救いを受けることが大切です。
主イエスによって目が癒され、見えるようになった人は、ファリサイ派からいろいろ尋問されましたが、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」と答えて、外に追い出されました。
主イエスは彼に会ってくださり、「あなたは人の子を信じるか」と問われました。「主よ、その方を信じたいのですが」と答えると、御自分が救い主であることを教えてくださいました。
生まれながらに見えなかった人は、主イエスを信じて救いと癒しをいただき、その生涯は変わりました。
美しい門で癒された人は、ペトロに立ち上がらせてもらい、たちまち足や、くるぶしに力が入り、躍りあがって立ち、歩き出しました。神を賛美し、歩き回ったり、躍ったりして、ペトロ達と今まで入ることができなかった神殿の中へ入って行きました。

この人は、今まで賛美することがあったのでしょうか。自分の生涯と境遇の為に苦しみ、神を礼拝しに神殿にも入れないことで、賛美することはなかったでしょう。しかし、今日、心も体も新たにされ、心からの賛美をしながら神殿に入り、礼拝するのです。人々は本当に驚きました。主イエスの救いの御手はペトロ達を通して差し出されました。その手を受け入れた時、人生はたちどころに命へと変えられました。
苦しみと呻き、つぶやきの日々から、喜びと賛美の日々に変わるのです。救い主の救いです。
この救いの御業は、先に救われたクリスチャンによってなされます。
ペトロが差し出した救いの御手は、私たちすべての者に委ねられました。私たちが人を救うことはできません。救いは主の業です。私たちは、主イエスの御名で救いを語ることができる、祈ることができることを忘れてはいけないのです。主イエスはご自身の御業の為に、私たちを用いようとしておられます。「わたしが持っているものをあげましょう」と、すばらしい永遠の救いを宣べ伝えましょう。

今週のみことば
「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
キリストはすべての支配や権威の頭です。」
コロサイの信徒への手紙2章10節


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