阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年8月22日
「祝福された歩み」
ローマの信徒への手紙12章9-12節

 日々、主の守りと恵みの中にあることを感謝します。
今日も心を一つにして礼拝しましょう。
イエス・キリストを救い主として信じ、心に受け入れた私たちは、御言葉によって生かされ、歩み続けています。
神の言葉は生きていて、私たちに光を与え、道を照らしてくださいます。御心を示してくださり、神の尊い愛を教えてくださいます。
私たちの為に救い主をこの世に遣わされ、全世界の罪の贖いの為に
十字架に架け、贖いを成し遂げてくださいました。
私たちの罪はイエス・キリストの十字架の身代わりの死によって贖われ、赦されたのです。
神の子とされ、永遠の命の中に歩む者とされたことを、心から感謝します。
神の子は、神の御心を喜びとし、祈りながら御心に従いたいと願います。それは、豊かな実を結ぶ生き方に繋がります。
ローマの信徒への手紙のテーマは、「信仰による義認」です。イエスをキリストと信じる信仰によって、人は罪許され、義とされます。
12章からは、義とされた人の歩み方が示されています。12章9節以下には、具体的な歩み方が記されています。
まず、愛について教えられています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9、10)とあります。
人間には、偽りの愛があります。それは、愛している振りにしかすぎず、演技のようなものです。それは、聖書が教える愛とは異質なものです。
聖書が教える神の愛について、具体的な教えが記されています。
「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9,10)という教えです。
悪については忌み嫌うという強い意味があります。愛はあいまいではないのです。コリント13章6節にも「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」とあります。罪を忌み嫌い、振り捨てることが示されています。
「善から離れず」とは、善に執着するという強い意味があります。
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:10)
キリストの愛を知っている者は、兄弟の愛をもって愛し合う事と、心からの尊敬をもって接することが教えられています。
フィリピの信徒への手紙2章3節には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え・・」(フィリピ2:3)と教えています。
虚栄心や利己心から何かするなら、それは「偽りの愛」に他なりません。
この教えは、教えとしては知っているけれど、いざその通りにしようと思うとなかなか難しい所があるかもしれません。
なぜなら、人はだれでも自分の内に自分を高めるという心を持つからです。良い意味でのプライドは必要でしょう。しかし、人を貶めたり、否定することは決して神に喜ばれることではありません。
旧約聖書サムエル記上20章には、サウル王の息子ヨナタンの事が記されています。ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛していました。
父であるサウル王は、ダビデを憎み、また、恐れていたので、命を狙っていました。ヨナタンはそれをよく知っていたので、ダビデを逃がしました。
ある特別な食事の席にダビデも連なるはずでしたが、2日続けて欠席しました。ヨナタンが危険を知らせていたからです。
サウル王は、ヨナタンがダビデに情報を漏らしていることに激怒しました。口汚くヨナタンをののしり、「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない」(サムエル上20:31)と命令しました。
ヨナタンはかねてダビデと約束していたように、危険を知らせ、ダビデを逃亡させました。ヨナタンは王の子なので、王位は約束されていると思うのが当たり前なのですが、次期王は神に油を注がれているダビデがふさわしいと知っていました。自分よりも優れた者と認めていたのです。
サウル王がダビデを狙って出陣した時、ヨナタンはそっとダビデの許に来て、神を頼るようにと励まし、「恐れることはない、父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(サムエル上23:17)と語りました。
ヨナタンは神がダビデを選んでおられることを知っていました。ダビデを愛し、神を畏れる敬虔さがこのような言葉と姿勢に見ることができます。ヨナタンは、尊敬をもってダビデを自分より優位の者と認める姿勢を崩しませんでした。
さらに、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:11,12)と教えています。
怠らずというのは、しなければならないことを先に延ばさないという意味があります。心の内に聖霊の火に燃やされて励みましょう。肉の力で何事も成し遂げることはできません。主に仕え、人に仕えるには、御霊の火を静かに燃え続けさせることが大切です。
12節以下には、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とあります。
私たちの現状にふさわしい御言葉です。
私たちは、いったいいつ収束するのかわからない、コロナ禍の中に2年近く置かれています。少し治まったかに思えていたのに、いつの間にかより感染力がより強いデルタ株に入れ替わり、陽性者はうなぎのぼりに増えています。
私たちは、いつどこでコロナウイルスに感染してもおかしくない状況の中にいるのです。兵庫県にも20日、4度目の非常事態宣言が出されました。
9月12日までとのことですが、延長されるかもしれません。
忍耐の時が続いています。仕事や学業に大きな影響を受けている方々も多いのです。
私たちは、このような時だからこそ、御言葉によって光を見出していくことができます。明るい光の中には光を見出せません。暗闇の中だからこそ光を見ることができます。
主イエスを信じる者は、どのような状況の中でも「希望をもって、喜ぶ」(2:12)ことができます。イエス・キリストこそが希望であり、光だからです。
出口の見えないトンネルの中にいるような状況でも、主イエスはそこにおられるのです。
希望も、喜びも力です。主イエスを仰いで賛美することができます。主を信じる者は、決して失望してうなだれることはありません。
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」(詩編42:5口語訳)と、御言葉により励まされます。
クリスチャンの力は、祈りです。「たゆまず祈りなさい」という御言葉が私たちに迫ります。たゆまずとは、「継続する」ということです。
祈りを継続するのです。
私たちは祈りの課題を掲げて祈ります。継続するのです。神は必ず最善の答えを下さいます。
祈ることができるのは、クリスチャンの特権であり、恵みです。父なる神の許に恐れなく近づき、喜びと賛美をもって祈り続けることができます。
天の父は、希望は失望に終わることがないことを教えてくださいます。
キリストによって救われ、愛されている私たちは、与えられている愛と恵みが測り知れないものであることを覚え、その愛に応えて前進してまいりたいと思います。


今週のみことば
「愛には偽りがあってはなりません。」
ローマの信徒への手紙12章9節


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