阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年8月29日
「わたしのことばにとどまるならならば」
ヨハネによる福音書8章31-32節

 主の恵みの御手によって支えられる日々であることを感謝します。
非常事態宣言が発令され、今日から新型コロナウイルス感染防止のために、YouTubeでの礼拝になりましたが、心を一つにして、それぞれのご家庭を臨在の場として礼拝しましょう。
主イエスが神殿で教えられた時、多くのユダヤ人が主を信じました。
その時、主イエスはご自分を信じたユダヤ人に対して、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)と語られました。
すると、その言葉を聞いた人々は、主イエスに、自分たちはアブラハムの子孫で今まで奴隷になったことはないと、反論しました。
主イエスが、自分たちを自由ではない人々であり、真理を知らないと言われたと思ったのです。
ユダヤ人にとって、アブラハムの血統であることが大きなプライドでした。
アブラハムには二人の息子がいました。一人は約束の子イサクであり、サラから産まれました。もう一人はそばめであるハガルから産まれたイシュマエルです。
ユダヤ人は、自分たちは奴隷から産まれた者ではなく、今まで一度も奴隷になったことはないのだと主張しました。
主イエスの語られることを理解し、受け入れることができませんでした。
主イエスは彼らに、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」(ヨハネ8:34、35)と続けて語られました。
主イエスは、自由ということを、罪と関連して教えておられるのです。
確かに、ユダヤ人は信仰の父であるアブラハムと、サラの血統であり、奴隷ではありません。ユダヤ人たちは、自分たちの血統を誇りにしたのですが、主イエスは血統ではなく、信仰に結び付けて教えておられるのです。
ローマ4章16節には、「信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです」とあります。
ユダヤ人だけではなく、主イエスを信じる者は恵みにより、永遠の救い、希望にあずかれると約束されています。
これらの恵みについて、ユダヤ人たちは理解できませんでした。
信仰ではなく血筋を誇り、律法が与えられている神の民であると誇っていたからです。
主イエスは大切なことを教えられる時、「はっきり言っておく」と言われます。これは、真実を最も真実にあなた方に伝えるという意味です。
「アーメン、アーメン」、まことに、まことにあなたがたに言いますという意味です。
主は、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われました。
神は、エデンでアダムとエバにすばらしい自由を与えてくださいました。しかし、彼らはその自由によって、罪を犯しました。神に対する不従順でした。その時から罪が入り、人は神と断絶し、罪の奴隷として生きるほかはありませんでした。
ユダヤ人だけではなく、人は、罪に支配され、罪の奴隷となってしまいました。奴隷はいつまでも家にいるわけではありません。子と奴隷は天と地ほども立場が違います。
主イエスが話された放蕩息子のたとえを思い起こすことができます。
この息子は罪の奴隷でした。自分の欲望に振り回され、支配されていたのです。
財産を分けてもらい、父の家を飛び出し、遠い国で勝手きままに暮らしました。これこそが自由に生きることだと思っていたでしょう。
しかし、その勝手な自由は長くは続きませんでした。放蕩の限りを尽くし、一文無しになってしまい、その上飢饉に見舞われ、ユダヤ人が忌み嫌う豚飼いとして働かなければなりませんでした。あまりの空腹に、豚の餌でも食べたいと苦しみました。しかし、食べ物をくれる人はいませんでした。
そこで初めて、父の恵みを思い起こすことができました。「はっと、我に返った」のです。
父の家には恵みがたくさん備えられているではないか。雇人さえ、豊かな食べ物を与えられている。悔い改めてお父さんにお詫びしようと思い、父の家に向かって歩き始めました。
生き方の方向を変えることができました。悔い改めたのです。
息子と呼ばれる資格はないから、雇人の一人としてもらおうと本気で思いました。
ところが、父は、遠くから息子を認め、走り寄って彼の首を抱いてくれました。詫びの言葉を聞く間もなく、一番良い服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせるようにと雇人に指示しました。
奴隷ではなく、息子として迎え入れたのです。
主イエスは、ユダヤ人たちに「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハネ8:35-36)と語られました。
いつまでもいる子とは、その家の子のことです。あとの、「もし子があなたたちを自由にすれば」といわれる子は、主イエスご自身のことです。    
主イエスは、真理としてご自身を証ししておられます。主イエスは、弟子たちとの最後の食事の席で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と教えておられます。
主イエスご自身が、道、真理、命であり、主イエスを信じることによって父なる神のもとに行くことができるのです。
ユダヤ人たちは、主イエスをキリストとして信じることはせず、十字架に架けてしまいました。しかし、十字架に架けた主イエスこそ、真理、救い主であり、信じる者を罪から解放してくださるお方なのです。
この時のユダヤ人たちは、主イエスを信じました。しかし、その信じ方は、自分の思いに合わなければ立ち去るという信じ方でした。
ですから、主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)と言われました。
主イエスの言葉にとどまるとは、御言葉に「居続けること」です。
主イエスの御言葉を聞き続け、信じ続けることです。自分の好みや都合で信じたり、信じなかったりすることではなく、どのような時も信じ続けることです。
主イエスの十字架により、罪から解放され自由にしていただいた者は、主イエスの言葉にとどまります。
主イエスに従うことが喜びとなります。日々、主イエスの御言葉によって生かされ、御言葉を糧として命に満たされます。
新型コロナウイルスによるさまざまな自粛生活が長くなりました。忍耐が試されています。
このような時こそ、私たちの信仰を聖霊に探っていただき、吟味する時です。
自分の都合の良い信仰ではないだろうか、根のない浅い信仰ではないだろうか、深く省みる時なのです。主イエスの本当の弟子として立つ者でありたいのです。
主イエスの十字架の死と復活により、私たちは罪から解放されて、本当の自由を得る者とされました。
主イエスとその御言葉にとどまり続け、生きておられる主イエスの栄光を現す日々であるように、祈りましょう。
「言(主イエス)は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(ヨハネ1:
12-13)アーメン

今週のみことば
「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、
 あなたたちは本当に自由になる。」
ヨハネによる福音書8章36節

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