阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年9月12日
「世の光」
ヨハネによる福音書8章12節

 YouTubeでの礼拝の3回目になります。今日も心を合わせて主を見上げ、霊と真をもって礼拝しましょう。主の日々の守りを心から感謝します。
非常事態宣言が発令されて3週間余りになります。当初は今日、9月12日解除のはずでしたが、30日まで延長されてしまいました。
もうしばらくYouTube礼拝が続きます。
教会に集まれないという大変な事態が続きますが、主イエスはいつも私たちと共にいまして、今日という日に与えてくださる恵みに満たしてくださることを感謝します。
今しばらく信仰と忍耐をもってこの時を送り、主ご自身を体験し、恵みに満ち溢れる証しを持ちたいと思います。
主イエスは、御自分の事を、「世の光である」と、証しされました。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)とお語りになりました。
暗闇の中を歩くのは、大変危険なことです。人は、暗闇の中ではまっすぐに歩くことができません。右か左か意識せずに曲がってしまうのです。もし、足元に危険なものがあっても気づきません。足をとられて転んでしまうかもしれません。
 人は罪の世の中を、罪を罪とも知らず、罪に支配されて歩きます。
エフェソの信徒への手紙6章には、「暗闇の世界の支配者」という言葉が記されています。暗闇の世界の支配者から、すべての人を解放するために主イエスはこの世に光として来てくださいました。
人は、罪がどれほど人を苦しめるか、また罪の結果がどれほど恐ろしいかを知りません。
罪は自己中心です。自分の利益、自分の喜び、すべてを自分中心に考えることが罪の根です。
自分中心と自分中心が相対すれば、人間関係がうまくいくはずはありません。家族が穏やかに、和やかに生活できるなら、すばらしい喜びに満ちた家庭と言えます。しかし、いつもいがみ合い、憎しみ合う家族も現実にあります。
愛し合って結婚したはずの夫と妻が離婚することも、現代では珍しいことではありません。
愛し合っているとはいえ、それは自分中心の愛で、お互いが相手に一方的に自分の思いを満たすことを求めるばかりでは、いつしか心は離れてしまいます。
使徒言行録に、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という御言葉があります。
この御言葉は福音書には記されてはいませんが、パウロがエフェソの長老たちと最後の別れをしたときに、主イエスご自身が言われた言葉だと証言しています。主イエスは、いつもこの御言葉を教えておられたことがわかります。
人はどちらかというと受ける方が幸いと思います。自分中心の性質から来るのです。しかし、主イエスは与える方が幸いと言われているのです。
主イエスは多くの奇跡をなさいましたが、五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人を満腹させたことがありました。
主イエスが弟子のフィリポに、集まってきている群衆のために、どこでパンを買えばよいだろうかと語りました。主イエスはご自分がなさろうとしておられることを知っておられてそのように言われたのです。
そのような問答をしていた時、弟子のアンデレが、一人の男の子が、大麦のパン五つと二匹の魚を持っていると、主イエスの所へ連れてきました。
アンデレは、「けれでも、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。
しかし、主イエスはこのパンと魚を祝福して、人々が欲しいだけお与えになりました。
パンと魚を持っていた男の子は、自分のお弁当として持っていたのでしょう。この男の子は犠牲を払いました。大切な自分のお弁当を差し出したのです。主イエスも弟子たちも男の子が拒絶すれば、無理やりお弁当を取ることはなさらないでしょう。
その結果、男の人だけで五千人が満腹しました。もちろん当の男の子もお腹いっぱいになったでしょう。そればかりか、心も魂も満たされたに違いありません。主イエスの大きな奇跡の為に用いられたのです。
受けるよりも与える方が幸いであることをしっかりと心に覚えたことでしょう。
主イエスの光を受けると、主の御言葉が喜びと命になります。
主イエスは、「尽きることのない富を天に積みなさい」(ルカ12:33)と教えておられます。
この教えは決して富が悪いというのではなく、何に執着し、何を心のよりどころにしているかを問われているのです。
富、あるいは富むことに心がいっぱいであると、本当に大切なことが分からなくなります。世の物は、いつしか失う恐れがあるもので、頼りにはなりません。
私たちの心が主にあるかどうかと教えているのです。宝のある所に心はあります。
この世のものはいつしか過ぎ去ります。しかし、主イエスと御言葉は永遠に変わりません。
主イエスは、私たちを愛し、私たちの髪の毛一本残らず数えておられます。私たちが自分でも気が付かない、あるいは知ることができない深い所まで、ご存じであるということなのです。
このように教えを一つ一つ心に留めていくと、恵みに満たされ、日々の歩み方が示され、光の中を歩むことの幸いを覚えます。
主イエスを心に受け入れて初めて、心は真の光に照らされ、霊の目が開きます。今まで気が付かなかった罪がわかるようになります。悔い改めに導かれます。罪を十字架で許されたことが大きな喜びとなります。
光が当てられると、見ることができないものが見えるようになります。
もし、生涯一度もイエスの名を聞いたことがない人がいるならば、先に救われた私たちは、責任を感じると思います。イエス・キリストの光を知らないことほど悲しいことはありません。
私たちが、誰かに福音を伝えます。福音の種まきです。私たちの働きがいつどこで芽を出し、実を結ぶのか、それはわかりません。
福音を伝えて直ちに信じてくれたなら、その働きの結果が見えて嬉しいと思います。しかし、そのようなことは数少ないのではないでしょうか。
イエス様を伝えてもなかなか信じてくれないと、がっかりすることが多いのです。
しかし、私たちにはその結果がわからなくても、主イエスは蒔いた種の責任を負ってくださることを知らなくてはなりません。
私たちが救われ、永遠の命をいただき、神の子とされて神を礼拝することができるのはなぜでしょうか。
誰かが誰かに福音を伝えたからです。最初に伝道した人は、今、私という者が救われて神を賛美していることを見ていないかもしれません。
しかし、見てはいなかったけれど、その実は結ばれたのです。
私たちは、主イエスという光に照らされて、信仰によって歩みます。
永遠の救いという目に見えない事実を、霊の目で信じ見るようになるのです。
コロナの影響がいつまで続くのかわかりません。感染の危機を覚えながらの生活が続いています。生活にも経済にも影響が大きく及んでいます。
しかし、このような暗闇の中にあって、主イエスの光は輝きます。
確実に、導きの御手は延ばされています。救いの光、喜びの光、命の光が巡り照らしているのです。
今、コロナ禍の為に、人に直接会うことが難しいですが、真の光、世の光である主イエスを闇の世に向かって伝えましょう。良い方法と知恵をいただきましょう。真の光を受け入れる者は、決して闇の中を歩むことはないと、語り伝えましょう」。

今週のみことば
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネによる福音書8章12節


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