阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年9月19日
「命のパン」
ヨハネによる福音書6章35節

 日々主イエスと共に歩み、その御手の中に守られていることを感謝します。
今日もYouTubeでの礼拝ですが、皆さんのおられる所を臨在の場として、主を崇め、礼拝しましょう。私たちは、居るところは分かれていますが、主にあって一つであることを感謝します。
コロナウイルス感染者は、このところ、減少傾向にあります。今月末に非常事態宣言が解除されれば、10月第一週、3日の日曜日から礼拝と日曜学校を再開できます。祈りつつ備えましょう。
さて、主イエスはご自分のことを、私はなになにである、というように表しておられます。
「わたしは世の光」、「わたしは門」、「わたしは良い羊飼い」、「わたしはぶどうの木」、「道、真理、命」と、このようにご自身を表しておられます。
今日は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)と教えられた御言葉に聞きたいと思います。
先週も触れたことですが、主イエスは五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人を満腹させてくださいました。
群衆が主イエスのなさった御業を見て、主イエスと弟子たちの後を追ってきました。主イエスは彼らを深く憐れみ、癒してくださいました。弟子たちは、日が傾いてきたので、群衆を解散させてほしいと主イエスに頼みました。ところが主イエスは、五つのパンと二匹の魚を祝福して、五千人を満腹させたのです。
主はなぜこのような奇跡をなさったのでしょうか。ご自分の力を知らせるためでしょうか。そうではなく、集まってきた人々を思いやり、空腹のまま帰らせることはなさらなかったのです。
パンを食べて満腹した人々はどう思ったのでしょうか。
翌日、人々は主イエスをカファルナウムまで探しに行きました。そして、主イエスを見つけたのですが、主は彼らに、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(ヨハネ6:26,27)と、言われました。
人々は、主イエスがパンを与えてくれた。またそのような御業にあずかりたいと思ってやってきたのです。
主は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネ6:28)と教えてくださいました。
イエスを救い主として信じ、受け入れることこそ神の業であると言われたのです。聞いている人々は理解しませんでした。しるしを見せて欲しいと言ったのです。
すると主イエスは、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(ヨハネ6:32,33)とお答えになりました。
ここで、まことのパン、神のパン、と言われているのは、もちろん主イエスご自身のことを言われているのです。
主イエスは、人々に食べ物のパンの事ではなく、永遠の命を与える命のパン、主イエスをお教えになったのですが、人々はあくまで食べ物のことと思って、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。いつもお腹を満たしたいと思ったのです」。
ちょうどサマリアのスカルの井戸で、主イエスがある婦人にご自分が永遠の命を与える命の水であることをお教えになったとき、「渇くことがないように、水を汲みに来なくてよいようにその水を下さい。」と言ったことと共通しています。
人は主イエスが永遠の事をお話になっても、自分の体の事、生活の事を考えて、必要を満たされたいと願うのです。
主イエスがこの世に来られたのは、世の罪を贖うために十字架に架られるためでした。
人は罪の為に、父なる神と断絶したままでした。罪を解決することは人にはできません。誰にもできないのです。
普通、人は自分が罪を持っているとは考えません。教会へ導かれてきた人が、教会では「罪人」とか、「罪」ということが話されるので、自分は罪人ではないと思うことがあります。
しかし、神が問われるのは心の罪です。犯罪を犯したことはないかもしれません。しかし、嘘をついたこと、人を憎んだこと、裁いたことなどなど、思い当たることはたくさんあります。
主イエスは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:22)と、はっきりと教えておられます。怒りを持ち続け、恨み、敵対心を持ち続ける、あるいは人を軽蔑し、侮辱すること、また、お前はどうしようもない愚か者だと言う者は裁かれると教えておられるのです。
私たちはこのような厳しい御言葉を退けてはなりません。心を整えて受け入れるべきです。悔い改めるのです。
人は生まれながらに怒りの子です。「生まれながらに神の怒りを受けるべきものでした」。(エフェソ2:3)とあります。
しかし、神の愛と恵みの御手が差し出されていました。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし ー あなたがたの救われたのは恵みによるのです。
(エフェソ2:4、5)

罪深い者をこれ以上ないほどの愛で愛され、その独り子を十字架に架けて救い、キリストの命に生きる者としてくださいました。
十字架の贖いにより、神との和解がなされました。私たちの努力や願いではなく、神の愛と憐れみによってなされたことです。
主イエスの十字架の贖いにより、罪の解決がなされ、神の子とされました。主イエスは私たちの救いの為に十字架に架り、御自分の命を投げ出されたのです。
主イエスは、ヨハネ6章で、繰り返し永遠の命についてお語りになりました。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6:51)
命のパンであるイエス・キリストを心から信じ、受け入れるならば、罪は主が受け取ってくださり、主イエスの命に繋がれ、永遠の救いにあずかれる。これが福音です。
人は神が造られたものです。神の被造物です。ですからまことの救い主を受け入れるまで、こころに満足と平安を得ることはできません。
この世のものによって、心の平安は得られません。イエス様はご自分を命のパンとして世に差し出してくださいました。だれでもこのパンを食べる(信じる)なら、救われます。
永遠の命をいただき、神と祈りによる交わりの中に喜びと感謝に生涯を送るのです。
命のパンを食べると、心は安心と喜びに満たされます。外から得られる平安ではなく、魂の奥からわき上がる聖霊の喜びと平安です。
命のパンを食べた者の魂は飢えることはありません。無限の愛に満たされるからです。イエス・キリストご自身というパンで満たされているからです。
コロナ禍の中で、さまざまな障害が引き起こされ、生活の不自由さや閉塞感を覚えながらの日々が続いています。
一体いつになったら終息するのかと、焦りを覚えることがあります。
しかし、主イエスは命のパンを受け入れよと仰せられています。イエスをキリストと信じなさいと、言われるのです。このような時だからこそ、本当に必要ななくてならない事実を信じて、命に満たされるようにと、語り掛けておられます。主イエスを心にお迎えして、主イエスの救いを感謝し、喜びと感謝をささげましょう。


今週のみことば
「わたしが命のパンである。
 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
 わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
    ヨハネ6章35節


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