阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年9月26日
「良い羊飼い」
ヨハネによる福音書10章11節

 9月最後の日曜日となりました。YouTubeでの礼拝が続いています。このところ、兵庫県ではコロナウイルスの感染者が減少しています。大変良いことですが、まだ重症の方や、残念なことですが死者も発生しています。まだまだ気を緩めずに適切な行動を取りたいと思います。
非常事態宣言が解除されるのが30日の予定です。予定通りであれば来週10月3日(日)から日曜学校と聖日礼拝を再開しますので、祈りながら準備をしてください。開始するときは改めてお知らせいたします。

さて、主イエスはご自分の事を、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。
また、御自分のことを「羊の門」とも言われています。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10:9)。
主イエスは、御自分が何のためにこの世に来られたのかを、ここでも証しされています。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と、教えておられるのです。
主イエスは羊である私たちが救われ、豊かな永遠の命をいただくために来られました。
「良い羊飼い」に対して、「悪い羊飼い」という表現はされていません。羊飼いではなく、「自分の羊を持たない雇人」について語られています。
雇人は、羊の事を気に掛けません。狼が来ると羊を置き去りにして逃げ去ります。狼は羊を奪い、追い散らします。
雇人にとって羊は他人のものなので、羊がどうなっても構いません。
良い羊飼いである主イエスと、雇人との違いが良く表されています。
主イエスは、「羊のために命を捨てる」と語られました。
主イエスは、失われた一匹を探し回り、連れ戻す羊飼いのたとえを話されました。
100匹の羊を持っている人がいて、そのなかの1匹を見失ってしまった。すると、99匹を野原に残しておいて、見失った1匹を見つけ出すまで探し回る。そして、見つかったら喜んで肩に担いで帰り、友達や近所の人に「見失った1匹を見つけたので、一緒に喜んでください」と、喜びを分かち合うというたとえ話です。
100匹の中の1匹だから、まだ99匹もいるから放っておくということはしないのです。羊1匹1匹がどれほど大切か、羊飼いの元に帰れた羊がどれほど幸いかを教えておられるのです。迷子になった羊は生きることはできません。探し回ってくれた羊飼いに命を救われたのです。
羊は、「羊の囲い」で夜を過ごします。野原に石で囲いが作られていて、朝までそこで休みます。一か所入り口があります。羊は、その入口(門)を通って出入りします。その門に羊飼いはいました。夜も強盗や、獣から羊を守っていたのです。
朝になると羊飼いは羊を連れ出します。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで羊の囲いから連れ出します。羊は羊飼いの声を聞き分けてついていきます。
羊飼いである主イエスとの深い信頼関係があり、羊は従っていきます。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14)。
主イエスと私たち一人一人の関係はそのように素晴らしいものなのです。
私たちの日常はどうでしょうか。今はコロナウイルス感染防止の為にさまざまなことが自粛されて、困ったことや、精神的にも苦しいことがあるのではないでしょうか。ワクチンを接種済でも、ブレイクスルー感染があります。まだまだ危機が去ったわけではありません。
だからこそ、もう一度しっかりと主イエスがどのようなお方か、自分がどのように主イエスに従っているかを見直していかなければなりません。
主イエスを良い羊飼いとして受け入れ、従っているだろうかということです。良い羊飼いの声を聞き分けているだろうかということです。
羊は良い羊飼いについていく限り、良いもので満たされます。
命と平安です。
詩編23編は誰もが知っている詩編です。詩編のなかの真珠と言われています。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23:1)と、羊飼いに対する完全な信頼が宣言されています。
良い羊飼いは、羊を毎日青い草地へ、憩いの水辺へと導きます。命の糧に導かれます。体が生かされるだけではなく、魂が生かされます。
私たちを正しい道に導き、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編23:4)
と、どのような場面にも主が共にいてくださるから恐れませんと告白させてくださいます。羊飼いとの深い信頼関係です。
「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油をそそぎ わたしの杯を溢れさせてくださる」(5節)。
私たちを苦しめる存在はたくさんあります。ある時は試練の中に苦しみます。病気やさまざまなトラブルもあります。
現在はコロナウイルスの脅威でしょうか。
しかし、良い羊飼いは、私たちの為に食卓を整えるお方です。どのような状況の中でも、霊の必要、日常の必要すべてを整えて慰めてくださいます。私たちの魂は素晴らしい聖霊の油を注がれ、溢れます。
このような危機の時に、あらためて体験できる大きな恵みがあるのです。
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」(6節)。
恵みと慈しみが常に追いかけてくるとは、なんと素晴らしい恵みでしょう。永遠の主の家が備えられているのです。
また、詩編100編にも、「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)とあります。
このように、私たちが主の羊として限りない恵みを受け続けるために、主イエスは十字架に架り、命を捨ててくださいました。
天の父がその独り子である主イエスをこの世に遣わされたのは、十字架の死と復活により、すべての人の罪を引き受けて、すべての人に赦しと永遠の命を与えるためでした。
主イエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10)と、言われたのです。
尊い十字架の犠牲を払って下さり、三日目に甦られたことを改めて感謝します。
主イエスが公生涯に入られて、福音を伝えながら町々村々を巡回された時、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている様子をご覧になって深く憐れんでくださいました。主はあらゆる病気や患いをいやされました。
羊は羊飼いがいないと生きることはできません。飼い主が導き、世話をすることで生きられるのです。
主イエスは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10:16−18)と言われました。
主イエスは、囲いにいないほかの羊も、羊飼いの導きを受け、その御声を聞き分け、一つの群れとなることを願っておられます。
永遠の救いを受けるために、十字架で死なれ、三日目に甦られた主イエス、この良い羊飼いを信頼し、日々導かれるままに従いゆく者の幸いを覚えます。すべての者が福音により、救いをいただけるように、祈り、働きかけて参りましょう。


今週のみことば
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
ヨハネによる福音書10章11節


 ページのトップへ
  
2021年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ