阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年10月3日
「まことのぶどうの木」
ヨハネによる福音書15章1-5節

 今日から日曜学校と、聖日礼拝を再開できたことを感謝します。
YouTubeでの礼拝も恵まれますが、こうして共に集まって礼拝できることは何より感謝なことです。
しかし、もうすでにコロナ第6波に備えるなどという声が聞かれています。そのような中に、緊張を強いられますが、一層気を付けて日々の生活を送りたいと思います。
体調の悪い時、発熱などの場合は教会出席を見合わせ、YouTubeで礼拝をしてください。職場や近い関係の方々が陽性になったときは、教会にもお知らせください。
来会前に、できれば検温をしてきてください。教会ではマスク着用をお願いします。手指の消毒もお願いします。
密をさけ、礼拝後は必要な連絡事項を交換するのみで、帰宅してください。もうしばらく、お交わりや、必要のない飲食はお控えください。
コロナの終息をさらに祈りましょう。
さて、主イエスは、ご自身と私たちの関係を、まことのぶどうの木と枝の関係にたとえて教えておられます。
主イエスはご自分をまことのぶどうの木と証しされました。真実のぶどうの木とは、父なる神から遣わされ、植えられ、信じる者を真の命に満たされる木であると言われたのです。
その前に、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハネ15:1)とあります。主イエスと父なる神との関係です。
主イエスが父なる神に植えられたまことのぶどうの木であり、この木に繋がる者は命のそのものである神からの救いを受け、成長させていただくことができるのです。
そして、父なる神のお働きが記されています。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:2)とあります。
主イエスに繋がっていながら実を結ばない枝とは、どのような枝かと考えさせられます。
主イエスを信じる者は皆救われ、永遠の命に満たされるはずですが、実を結ばない枝は父が取り除くと言われるのです。
大変厳粛な御言葉です。私たちは心を整えて御言葉を聞かなければなりません。
主イエスを信じていても心の中には、良い実りをもたらさない部分があることを考えてみたいのです。それは、内に持つ罪です。
主イエスを救い主として信じた者が、罪に負けて、その結果を刈り取ることがあります。イスカリオテのユダはどうだったでしょうか。
主イエスの12弟子として従っていたはずが、会計を受け持っていたので、預かっていたお金をくすねていました。ヨハネによる福音書12章には、「彼は盗人」(12:6)とあります。さらに、主イエスを祭司長たちに銀貨30枚で売り渡しました。
その後、主イエスが十字架刑に処せられるという判決を知り、後悔して祭司長たちの所へ行き、銀貨を返そうとしたのですが、祭司長たちは全く相手にせず、絶望したイスカリオテのユダは自殺の道を選んでしまいました。
主イエスを信じていたのに、なぜかと疑問に思います。
それは、自分の内にある罪との対決がなかったのです。自分の欲に従っていき、自滅してしまいました。悔い改める機会はあったのです。
しかし、罪をかなぐり捨て、主イエスの御言葉に従う姿勢がありませんでした。
人は日々、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて従っていくことを決心する必要があります。
3節以下に、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい」とあります。
父なる神による「手入れ」とは、枝の剪定と考えることができます。
御言葉による剪定です。
ぶどうだけではなく果物を実らせるためには剪定が必要です。主イエスを信じる者にも剪定が必要と考えられます。
それは、私たちの内にある、実を実らせない所を切り取るという神のお働きです。
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃(もろは)の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。(ヘブライ4:12)とあります。
御言葉は人の内側のどのような部分にも鋭く働きかけ、本当の姿を映し出すのです。当然、暗い部分、罪をも知らせます。
御言葉によって悔い改めに導かれ、選定されるべきところが手入れされてこそ、豊かな実りに繋がります。
主イエスは重ねて「わたしにつながっていなさい」と言われます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4,5)
悔い改め、心を新しくされて、まことのぶどうの木である主イエスにつながるなら、その豊かな命は豊かな実を実らせてくださいます。
実が自分だけで実をみのらせることはできません。
主イエスにしっかりとつながり、主イエスがつながってくださるので、豊かな実を結び、豊かな命にあずかるのです。
クリスチャンが結ぶ実は、神の栄光を表す生き方です。私たちが豊かな実を結ぶために、主イエスは十字架で命を捨ててくださいました。
まことのぶどうの木の教えをされたのは、最後の食事の席でした。
この後すぐにゲッセマネで逮捕されるという時でした。弟子たちはまだ何も知りません。イスカリオテのユダだけが退席して、主イエスの逮捕を導く為に祭司長たちの許に向かっていました。
すべての人の救いのために、十字架に架られた主イエスの愛ほど大きな愛はありません。
人は愛されることを求めます。しかし、人の愛は続かないことがあります。神は主イエスの十字架で永遠に変わらない愛を示してくださいました。アガペーの愛です。
主イエスの十字架によって罪許され、永遠の命をいただいた者は、まことのぶどうの木である主イエスに繋がっています。
父に手入れをされる時には、痛い思いをするかもしれません。しかし、それは、まことのぶどうの木に繋がり続け、豊かな実を結ぶために必要な痛さなのです。
大風が吹いて枝が飛ばされそうになるかもしれません。試練という大風です。その時に私たちは自分の信仰が試されます。
主イエスはその愛の御手で私たちに繋がっておられます。私たちも大風に振り回されそうでも、主イエスにつながっていることができるのです。どんなことがあってもその手は放しません。
主イエスによる豊かな人生は、この世の成功とは違います。世の人は経済的に成功することや、大きな功績を残し、称賛を受けることなどが実を結ぶこと考えます。それは素晴らしいことです。
主イエスに繋がる者の豊かな実とは、主イエスの愛の実を結ぶことです。十字架の愛を世に示し、永遠の命を伝えることです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:16,17)
主イエスの愛の実は私たちの内に豊かに結ばれます。その実は自分だけのものではありません。それぞれが遣わされ、主イエスの愛を伝えていくことこそが、実のあらわれであることを覚えて、そのすばらしさを伝えて参りましょう。

今週のみことば
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
ヨハネによる福音書15章5節

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