阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年10月10日
「私は道」
ヨハネによる福音書14章6節

  今日も心を合わせ、一つとなって礼拝をささげましょう。
詩編100編は礼拝の詩編と言われています。
礼拝をささげる人々の喜びと感謝が生き生きとうたわれています。
「感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ」(詩編100:4)。
感謝と賛美をもって神を待ち望み、礼拝をささげましょう。
主イエスは弟子たちに、最後の食事の席で大切なことをお教えになりました。
イスカリオテのユダはすでに祭司長たちのもとに、主イエス逮捕の手引きをするため、食事の席を退席していました。
いよいよ十字架の時が迫っています。
ユダが退席する前に、主イエスは裏切りと十字架を思い、こころを騒がせて、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(ヨハネ13:21)と断言されました。
そして、弟子たちに互いに愛し合う事を教えられ、主イエスの行く所あなたたちは来ることができないと言われました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34,35)。
主イエスの弟子の証しは愛であることを教えてくださいました。
しかし、弟子たちは、主イエスが行く所にあなたたちは行くことができないとお聞きして、不安を覚えたのです。
主イエスがどこかへ行ってしまわれる、そして、そこに自分たちは行くことができないと言われる。
その御言葉を理解することができず、不安に思うばかりでした。
主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。(ヨハネ14:1)と語りかけてくださいました。
主イエスは信じる者すべての為に、天に所を備えに行かれることと、備えができたら迎えに来ることを教えてくださいました。
「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:3)と約束されました。
しかし、主イエスの御言葉が弟子たちには分かりませんでした。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:4)と、そのように言われても、分りませんでした。
それで、トマスが主イエスにお聞きしました。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(ヨハネ14:5)とお聞きしたのです。
すると、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
(ヨハネ14:6)とお答えになりました。
主イエスは御自分が、父の許に行くことのできる道だと宣言されました。だれも主イエスを通らなければ父の許に行くことはできないのです。
主イエスは、すべての人の罪の身代わりとなって、十字架で命を捨ててくださいました。三日目に復活されて、今も生きておられるまことの神です。
主イエスという道を通るとは、この十字架の救いにあずかり、主イエスに留まり続け、従い続けていくことです。
人にとっての一番大きな問題は何でしょうか。生きている限り様々な問題に行き当たり、悩むことが多いのです。しかし、最終的に死という問題を持っています。
この世でどのように大きな働きをして人々の称賛を受けても、やがては死を迎えることになります。
死に対する解決はどうしたら得ることができるのでしょうか。
使徒パウロは、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(Uコリント5:4)と記しています。
この世は幕屋、仮の住まいであり、たしかに重荷の為にうめくけれども、この世の命を脱ぎ捨てたいのではなく、死ぬはずのものが命に飲み込まれる、天の住みかを上に着たいと、そのように切望しています。
死ぬはずのものが、永遠の命を上に着ることができるのです。
それは、主イエスの十字架の贖いの業によるほかに、方法はありませんでした。
罪を持つままでは、滅びに向かうほかはありません。この世で正しい道だと思っても行き先は滅びなのです。
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14:12口語訳)。
自分では正しい道を歩んでいると思っても、罪の道に迷うことがあるのです。
主イエスは、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13,14)と教えておられます」。
この世の門は広く、その道も広々としていて、そこには世の中の楽しみや喜びがたくさんあるように見えます。入りやすく歩きやすく、そのように見えます。しかし、命の解決はない道です。
命に至る門は狭いのです。その道も細いのです。この世とはあきらかに違う道です。主イエスは命の門であり、道だと教えてくださいました。
主イエスを信じた者は、世の生き方と価値観から解放されます。世と世のものは一時的なものであり、いつしか失われていくものです。
主イエスを心に受け入れた時から、永遠を思う心が与えられて、主イエスという道を歩きます。
私たちの国籍は天にあり、この世では幕屋、仮の宿に住まう者であり、やがて主イエスの命が着せられることを望み、喜びとします。
使徒パウロは、かつては厳格なファリサイ派として、クリスチャンを激しく迫害する者でした。しかし、ダマスコ途上で復活の主イエスにお会いしてから、悔い改めて主イエスを伝える生涯に変えられました。
主イエスという道を歩む者となったのです。
パウロは、「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Uコリント5:8,9)と告白しています。
そして、そのわけを、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いをうけねばならないからです。」(Uコリント5:10)と続けています。
主イエスは表面的なことを問われるのではありません。私たちの動機や目的が何であったのか、何に心を傾け関心を注いでいたのかを問われるのです。表面的な成功や失敗の結果を見られるのとは違います。報いをいただくために主の前に立つのです。
主イエスを信じる者は、罪と死から解放されています。それは、主イエスの十字架の贖いによります。主イエスの十字架の死と復活は、信じる者すべてに永遠の命を着せてくださるのです。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(Uコリント4:14)
主イエスは、私たちすべての者のために十字架に架り、その愛を示して下さいました。信じる者に永遠の命を着せ、永遠の住まいを備えてくださいます。
ある時は、主イエスという道を歩くのが厳しいと思うことがあるかもしれません。主イエスの道は命の道です。私たちは一人で歩くのではなく、主イエスご自身が共に歩いて下さり、時には背負い、時には手を差し伸べておられることをいつも覚えたいのです。
賛美と感謝をもってこの命の道を歩き続けましょう。

今週のみことば
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
 だれも父のもとに行くことができない。」
  ヨハネによる福音書14章6節


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