阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年10月17日
召天者合同記念礼拝会
「決して失ってはならないもの」
マルコによる福音書8章36-37節

毎年9月に行われる召天者合同記念礼拝会は、今年は非常事態宣言中ということで、延期をしていました。
今日、このように先に天に召された兄、姉を記念して、礼拝をささげられることを心より感謝します。
 このところ、コロナ感染者は減少し、非常事態宣言は解除されていますが、コロナウイルス感染が終息したわけではありません。これから季節が移り、寒くなれば、また増加するかもしれません。油断せずしっかりと注意しながら日々を送りましょう。
 私たちはどのような折にも、主イエスの御手の中にあることを感謝します。
主イエスは、世に遣わされ、私たちすべての者のために十字架に架られ、命を捨ててくださいました。それは、私たちの罪の贖いの為でした。
普通、罪とは、犯罪だと考えます。法律に反し、警察に捕まることが罪だと考えます。
しかし、聖書は、罪とは真の神から離れ、自分中心に生きることと教えています。心の罪が問われます。
人は神が創造された霊的な存在です。神は人を神の形に似せて創造されました。神の形に似せたとは、神のご性質を持つ者であるということです。真の神と親しく交わり、神に応答できる者であるということなのです。
最初に神に創造された人、アダム、そしてエバはエデンで神と親しく交わっていました。ところが、そこに罪が入り込み、エデンでの生活は終止符を打ちました。
エデンの園で人は自由でした。神は園の木のどれからも自由にとって食べても良いと言われました。しかし、たった一つの事を守るように命令されました。神は、アダムに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16、17)と、命じられたのです。
神の言葉に対してアダムとエバは不注意でした。恵みに慣れ過ぎていたのかもしれません。
たった一つの戒めを守ることができませんでした。ある日、ヘビがエバを誘いました。
エバは、言葉巧みに善悪の木の実を食べるようにと誘うヘビの言葉に、木の実をみると、あまりにおいしそうなので食べてしまい、夫アダムに実を渡すと、彼も食べてしまいました。
最初の罪が入りました。彼らはエデンを追放され、罪の結果の死が入り込んだのです。霊的な死と、肉体の死です。
「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)
彼らはエデンから追放されますが、神は彼らに皮の衣を与えて着せてくださいました。
そして、やがてサタンの頭を砕くこととなる方の来臨を、予告なさいました。
神は蛇に対して「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」
(創世記3:15)
と、宣言されました。サタンの頭はやがて世に遣わされるメシアによって完全に打ち砕かれるのです。
このアダムとエバの時から人に罪が入り、神との断絶が始まりました。
罪の性質は人に受け継がれ、「原罪」を持つ者となりました。
真の神から離れた人間は、勝手に神を作るようなことも始めました。真の神の存在を受け入れない人間たちは、神ならぬ神を作りだすようになりました。
日本には八百万の神がいると信じている人々がいます。しかし、そこにまことの救いはありません。人の考えで作り出したものに、人を救うことはできません。石や鏡にも救いはないのです。
人が木で、神と呼ばれる像を作っても、それは木であって、ある部分は神の像となり、ある部分は薪になって燃料になる。
薪と同じ木で作った像に向かい、「お救いください。あなたはわたしの神」とひれ伏すと、イザヤ書には記されています。(参イザヤ44:15以下)
偶像にひれ伏しても救いはありません。
人の罪の解決と、神との断絶を回復するために、神はその独り子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。
主イエスは人の救いの為に十字架に架り、代価として命を捨ててくださいました。そして、三日目に甦られ、今生きて救い続けてくださるお方です。
主イエスは弟子たちに、御自分が十字架の道を進まれることをお話になりました。ユダヤの長老や祭司長、律法学者たちから排斥され、十字架に架けられ、しかし、三日目に復活すると教えられました。
マルコ8章32節には、「しかも、そのことをはっきりとおはなしになった」とあります。これ以上ないほどきっぱりと話されたのです。すると、ペトロは主イエスをわきへお連れして諫め始めました。「とんでもないこと、あってはならないこと」と諫めました。
主イエスは、振り返って弟子たちをご覧になり、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)と、叱責されました。
さらに、弟子としての生き方を教えられ、地上の命を最優先するなら、まことの命は失われ、主イエスに従い続けてこの世の命をささげるなら、まことの命、永遠の命を得ると教えられました。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マルコ8:36,37)と続けてお教えになりました。
ここでの命という言葉は、「永遠の命」という言葉です。
人がこの世で栄耀栄華を極めても永遠の命を失ったら、何によっても買い戻せないという意味のお言葉です。
ですから、人が決して失ってはならないのは「永遠の命」です。
人が決して買い戻せない永遠の命の代価は、主イエスの十字架によって支払われました。
まことの神を知らず、信じることもせず、罪を罪とも知らずに生きてきた人々の救いの為に、主イエスは十字架に架ってくださいました。
何もしらないペトロ達は、主の十字架の予告に恐れをいだき、主イエスをお諫めしました。しかし、主イエスの十字架による以外は、罪の赦しも永遠の命もありませんでした。
永遠の命は、主イエスを心に信じて受け入れたとき、恵みによって与えられます。交換条件はいりません。ただ救い主を信じることだけです。  神との関係が回復し、神を御父とお呼びし、神の子として自由に祈り、賛美し、お交わりができるのです。
主イエスを受け入れた者は、この世にある時も、天に召されても、永遠の命に生かされます。
家族や親しい友人が天に召されると、寂しく、悲しい思いをするでしょう。しかし、主イエスを救い主と信じ、受け入れた者は、永遠の命によって今も、これからも生かされます。
主イエスは、十字架の業を終えられて天に帰られ、神の右に座して、私たちの為にとりなしていてくださいます。そして、時が来たら、再び来られて信じる者すべてを迎えてくださいます。
家族や親しい人たちと死別すると、本当に悲しい思いをしますが、キリストを信じる者には、永遠の命という希望があり、再会の希望を持ち続けることができるのです。そして、主イエスが復活されたように、信じる者すべての者が復活するという確実な希望があるのです。
罪と死に勝利された主イエスにあって、私たちも勝利することができました。
永遠の命の価値をしっかりと知り、わきまえ、主イエスの十字架の贖いを日々感謝し、神の御心を歩むことができるようにと、さらに祈りましょう。

今週のみことば
「罪と何のかかわりもない方を、
 神はわたしたちのために罪となさいました。
 わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
 Uコリントの信徒への手紙5章21節



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