阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年10月24日
「信仰によって義とされる」
ローマの信徒への手紙3章21-26節

 10月第四週日曜の礼拝をささげられることを感謝します。
新型コロナウイルス感染者が減少してきて喜ばしいことです。さまざまな規制も緩和されるようですが、私たちは気持ちを緩めずに、感染防止に努めてまいりましょう。
ローマの信徒への手紙の主題は、「信仰による義認」です。
宗教改革をしたルターは、ローマの信徒への手紙によって信仰の目が開かれ、信仰により、恵みにより、主イエスの十字架により人は義とされることを確信したのです。
10月31日は宗教改革記念日ですが、私たちは1週早く、恵みにあずかりたいと思います。
いつも心に留めることですが、人はだれも罪の解決することはできません。神がご覧になるのは、人の心の罪ですから、だれも自分は罪を犯したことはないと、主張できません。
聖書に良く登場するファリサイ派とは、宗教的な指導者で厳格に律法を守り、守れない人々を見下すような人々でした。
ファリサイとは、ペルシーム、分離という意味があり、自分たちこそ清い者であると自認していました。
清い者であるために、食事をする前には念入りに手を洗いました。市場から帰ったときは、身を清めてからでなければ食事をしませんでした。
食事の席に着く前に手の汚れを落とす、また、市場で取引をしたので、汚れたと考え、身を洗いました。
これらは、衛生面からきた考えではなく、自分たちの宗教的な清めのためでした。施しや断食をし、それで人々の称賛を得ようとしていました。普通の生活面から分離して、過剰に清さを保つことを絶対的なことして、そのように行わない人々は軽蔑し、裁きました。
施しや水による洗いで、心の罪は清められません。善行によっても清められません。
主イエスはファリサイ派を白く塗った墓と呼びました。痛烈な皮肉です。外側はきれいだが、内側は汚れたもので一杯であるということです。
外側は人から正しい人と見られても、内側は偽善と不法でいっぱいだと言われました。
神の義とは程遠い人々でした。
ローマの信徒への手紙は、神の義について教えています。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(ローマ3:21,22)と、あります。
人がどのように努力しても、神の義は受けられません。神の義とは、罪人が神の清さにあずかることなのですから、本来あり得ないことです。
義とされたとは、義であり聖なる神が、キリストの十字架の贖いにより人を救い、信じた者は神との関係が正しくされたこと、と考えることができます。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23,24)と教えられています。
先日もお話ししましたが、最初の人アダムとエバが神のお言葉に背いたところから人に罪が入り、神との関係が断絶してしまいました。
真の神の恵み、栄光と無関係な人生を送り、罪の中に死を迎えることになったのです。
聖なる神が罪の中にある人をどのようにして聖い者とされるのか、そこに神の計り知れない愛の御計画がありました。
「ただキリスト・イエスの贖いの業を通して」、神の恵みにより、人は罪許され、義とされるのです。
いくらきれいな水で身を洗っても、手を洗っても、口をすすいでも心は清くなりません。
巨額の金銭を施しても、善行をおこなっても、罪の赦しと永遠の命は得られません。唯一、主イエスの十字架の贖いにより、罪は赦されます。
ガラテヤの信徒への手紙5章19節以下に人の肉の性質のリストが記されています。肉の性質とは、生まれながらの人の性質、罪の性質のことです。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(ガラテヤ5:19―21)。
生まれながらの人間は、まことの神との正しい関係が断たれていて、救いも天国の希望もないのです。
罪の中に生まれ、罪の中に生き、罪の中に死ぬのが罪人の姿でした。
神はそのような人の姿を、よしとはされません。なぜなら、神のご性質は愛だからです。
独り子主イエスをこの世に遣わされ、十字架の贖いを完成させてくださいました。十字架は神が世に対して架けてくださった救いの橋です。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:25)
人の救いと神との和解の為に、主イエスは十字架に架り、その血をもって人の罪を赦してくださいました。ここに神の全き愛が表されたのです。だれでも、キリストが自分の罪の為に十字架に架り、死んでくださったこと、三日目に甦られたことを心に信じて受け入れ、告白する時、直ちに義とされ、永遠の救いを受けるのです。これが福音です。
ルターは、当時の教会、教皇が贖宥状を発行し、贖宥状を買う者は、天国に入れると教えたことに疑問を持ちました。
人はみな救われたいのです。滅びたいとは思いません。ただその救いの道がわからず、贖宥状が提示されれば、それを買って天国へ行きたいと願いました。人々にそのように教えた教会や教皇はまことに罪深いものです。
当時の教皇たちは聖書を読むこともなく、ただ儀式やしきたりに従い、世の富に対して関心がありました。教会の伝統や儀式を重んじていて、福音とはかけ離れていたのです。
一般の人々も聖書を読むことなどはありませんでした。また、教会から聖書を教えられなかったので、何が神の御心か知ることができませんでした。
そのような中、悩みながら神学を教えていたルターは、ローマの信徒への手紙を読み、人が義とされるのは、イエス・キリストを信じることによると、確信を持ったのです。そして、ウィッテンベルグ教会の扉に95か条のテーゼを張り出しました。宗教改革の波が起き始めました。
旧約の預言者イザヤは、BC800年頃、ユダ王国で活躍した預言者でした。メシア預言で有名な預言者です。イザヤが預言者として召しだされた時、聖所の神の幻をみました。
それはまことに荘厳で聖なる情景でした。イザヤは自分が罪深く、その唇は汚れていると告白したのです。
すると、神の創造物であるセラフィムが飛んできて、祭壇からの火鋏でとった炭火を持ってイザヤのそばにきました。イザヤの口に火をふれさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ6:7)と宣言しました。イザヤは神の言葉を人々に取り次ぐ預言者として用いられました。
イザヤの唇に神の火が触れられ、清められたように、主イエスは罪人の為に十字架で血を流されました。
主イエスを信じる時、たちどころに罪は赦され、神の子とされ、永遠の命に生かされるのです。十字架によって表された神の愛をいつも心に覚え、罪なき方が罪ある者の為に犠牲となって義と認めてくださり、命を与えてくださったことを感謝し、御心を歩む者とさせてくださいと祈りつつ、恵みの中に進みましょう。この神の愛と、恵みによるまことの救いを多くの方々に語り続けましょう
救いの業は私たちが十字架によって義とされたこと、恵みにより救われたことの証しにより、起こされるのです」。

今週のみことば
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており・・」
ローマの信徒への手紙5章1節



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