阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年10月31日
「恵みと平安」
Uペトロの手紙1章1-2節

 今年も早いもので10月末を迎えました。新型コロナウイルスに翻弄された一年になりましたが、今日まで守られたことを感謝します。
ワクチン接種が進み、感染者は少なくなりました。町の中ではマスクをしていない人を見かけるようになっています。しかし、第6波の予想もされています。これから寒くなり、規制が緩和されて人の往来が増えれば、また感染が広がる恐れがあります。気を緩めず、感染防止に努めたいと思います。
ペトロの手紙T、Uを書いたのは言うまでもなく使徒ペトロです。ガリラヤ湖の漁師をしていた時に、主イエスに招かれて弟子となりました。
主イエスが十字架の死と復活を予告した時、主を諫めて叱責されたり、大祭司の庭で主イエスが裁かれている時、主と一緒にいた人だと指摘されて、強く否定したり、弱さを持つ普通の人でしたが、聖霊が注がれたのち、力強い主の証人となって、パウロ同様大きな働きを全うしました。ペトロは、大きな失敗をしても主イエスから離れませんでした。これは本当に大切なことです。
人には失敗したり、罪を犯すと、主イエスの顔を避けるような所がありますが、これは主から遠ざかり、信仰を失うきっかけとなるようなところがあるので、注意がいります。そのような時こそ、弱いから、失敗してしまったから、主イエスの許に来て悔い改めて新しい信仰に生きることが、クリスチャンの歩み方です。
主イエスは悔い改める者を何度でも赦し、生かして用いてくださいます。
ペトロの手紙Uは、ペトロの手紙Tの同じ宛先に送られました。
小アジアの教会と、クリスチャンに宛てた手紙です。この時、教会とクリスチャンたちは迫害の中にいました。
ペトロは、自分の事をイエス・キリストの僕であり、使徒であると紹介しました。
キリストの僕とは、キリストの奴隷という意味です。ペトロは、自分はキリストの僕であり、御心に従って生きる者であるけれど、あなたたちもキリストの僕として生きるようにと、勧めました。
ペトロTの手紙2章16節には、「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(Tペトロ2:16)とあります。
この世の中で自由人として生きることができます。しかし、その自由を悪を行う口実とするのではなく、いつでも神の僕として生きるようにと勧めています。
さらに、ペトロは、自身をキリストの使徒であると、記しています。
使徒とは主イエスが選ばれた12弟子で、キリスト教会の最高の指導者として立てられた人々を指します。主イエスの伝道の生涯に従った人々であり、キリストの復活の証人であることが、使徒の条件でした。イスカリオテのユダが脱落したので、後にマティアが選ばれて使徒とされました。(参・使徒1:26)
パウロは12弟子ではありませんでしたが、復活の主にお会いして悔い改め、使徒として認められて福音のために働きました。
ペトロはかつての自分の弱さが赦され、力を注がれて、キリストの僕であり、使徒とされていることを感謝しながら手紙を書き送りました。
「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」(Uペトロ1:1)。
このように、教会と信徒を、神とキリストの義によって救われ、ペトロ達と同じ尊い信仰を受けたと続けました。
罪人を救い、義とするために主イエスは十字架で命を捨ててくださいました。この救い主を信じる者は、だれでも神の義を受け、救われます。永遠の命に生かされます。
ペトロの手紙U1章2節は祈りの言葉です。
「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」(Tペトロ1:2)
繰り返しになりますが、この手紙は迫害の中に信仰の戦いを戦っているクリスチャンに送られた手紙です。
平穏無事でいたのではありません。悩みや多くの問題、信仰の戦いの最中にありました。
ペトロは、「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」(Tペトロ4:12)と記しました。
実際に火のような激しい試練にあっている人々に、恵みと平和がますます豊かにあるようにと祈ったのです。
聖書には、恵みという言葉も平和(平安)という言葉がたくさん使われています。
恵みとは、神が受けるにふさわしくない者なのに、無償で与えてくださる好意、恩恵です。
神が下さる恵みは、本来いただくことができないのに、ただで与えてくださるので、恵みなのです。
恵みの理由は、神の愛という理由です。その独り子を下さるほどの愛が恵みの理由です。
私たちが救われたのは、恵みによります。罪の為に真の神との関係が断たれたまま、罪の中に滅びなければならなかったものを、御子の十字架により、罪を赦し、救って下さいました。
私たちは」恵みにより、信仰によって救われたのです。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)。神の恵みは、私たちの毎日の生活の隅々にまで及んでいます。
日々の糧を与え、必要すべてを満たしてくださいます。
私たちは毎日食事をします。食事をしないことなど病気の時以外にはありません。当たり前のように思いますが、神の恵みであることを忘れてしまうことはないでしょうか。
「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は・・・」(Uコリント9:10)。という御言葉があります。直接的には、豊かににささげる者は、豊かに刈り取るという霊的な意味がありますが、日用のパンを糧として与えてくださるのは神なのです。
日々の食物を与えてくださるのは恵みです。また、生活のすべての必要は恵みによって与えられます。「わたしたちの日々の糧をお与えください」と祈ることができるのも恵みです。
主イエスの救いを喜び、主の御心に従って生きられることも大きな恵みです。
もう一つの言葉、「平和」について考えてみましょう。平和は平安という言葉と同じです。心の中の状態を表す時には、平安、平安が表面に現れる時には、平和という言葉で理解できると思います。
主イエスの平安は主が約束してくださった平安で、さまざまな条件や環境で変化するものではありません。外側から受けるものではなく、内側、魂の奥から溢れ出てくる平安です。
外側に激しい嵐、迫害が吹き荒れても、無くなる平安ではありません。
この恵みと平安はどのようにして持つことができるのでしょうか。
「神とわたしたちの主イエスを知ることによって」とあるのです。
「知る」という言葉は、見分ける、あるいは理解するという意味があります。また、個人的に正確に、正しく、知るという意味があります。
自分自身が正確に、正しく、また深く主イエスを知ることが恵みと平和(平安)にますます満たされることだと教えています。
主イエスは私の神ですという信仰の告白と共に、さらに深く主イエスを知ることができるようにと祈ることは大切です。
今、生きておられる主を頭で知るのではなく、体験として知ることです。生きておられる主を毎日知ることこそが私たちの信仰生活です。
恵みと平和(平安)はすでに与えられています。「ますます豊かに与えられるように」とあるのです。
自分の魂を見つめなおし、なお主の恵みと平安の中に日々生かされていることを改めて感謝しましょう。

今週のみことば
「神とわたしたちに主イエスを知ることによって、恵みと平和が、
あなたがたにますます豊かに与えられるように。」
Uペトロの手紙1章2節



 ページのトップへ
  
2021年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ