阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年11月14日
「仕え合う」
Tペトロの手紙4章10-11節

 一週間の間、守られ、今日も礼拝をささげることができました。感謝します。
今年も早いもので、11月半ばを迎えています。新型コロナウイルスに対する予防などで過ごした11か月間でしたが、今月28日から、アドベントを迎えようとしています。アドベントはご降誕前の4週間ですが、今年は11月28日から12月24日までとなります。
今年のクリスマス礼拝は、12月19日にささげます。
主イエスのご降誕を思い巡らし、クリスマスを迎える心の備えをして参りたいと思います。
主イエスが来臨された目的は、言うまでもなく全世界の救い主として、人々を罪から救い、永遠の命を与えるためでした。
父なる神は、罪ある者たちを愛し、救いの道を与えてくださいました。それが御子イエスの来臨です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3:16)この御言葉に神の愛が表されています。
大切な独り子をこの世に下さったのです。「世」という言葉の代わりに自分の名前を入れてみると、神の愛をますます確信することができます。
主イエスは神の子であるのに、人の姿をとられ、遜って十字架への道を歩まれました。
十字架の少し前に、弟子のヤコブとヨハネの母が息子と共に主イエスの許にやってきました。何をお願いするのかと思ったら、主イエスが王座に着かれる時には、息子二人を右左に座らせてくださいというお願いでした。息子たちを主イエスに次ぐ偉い立場においてほしいと願いました。
まことに人間的な願いです。
主イエスは、これから全世界の救いの為に十字架に架けられるのです。
主は、ヤコブとヨハネに、あなたはじぶんが何を願っているのかわかっていない。これからわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか、と聞かれました。もちろん十字架の事を言われているのですが、二人は何のことかわからないまま、「できます」と答えました。
主イエスは、誰が右と左に座るかは、天の父がお決めになることだと教えました。ヤコブとヨハネが望んだのは、この世の王座の右、左ですが、主イエスがお答えになったのは天の王座の右、左です。
この問答を聞いて、他の十人の弟子たちは腹を立てました。自分たちを出し抜いて、良い地位をねだったと怒りました。
ここで主イエスは、天の国はこの世の権力者たちが求めるような事とは違うと教えて、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:26―28)と、教えられました。
人の罪が許され、神との和解ができるためには、どうしても主イエスの十字架が必要でした。それ以外の方法はありません。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5:6)とあるように、主イエスは、真の神を知らず、罪の道を歩んでいた者の為に、贖いとして死んでくださいました。
その理由は、ただ一方的な神の愛です。神の愛は十字架で表されたのです。
愛された者は愛する者に変えられます。主イエスが仕えるための生涯を送られたことを心に覚え、主イエスの仕える姿勢から学び、生活の中で表していくことは大切であり、証しです。
家族が仲良く生活できるなら、最高の幸せとなります。仲が悪い家族は、幸せではありません。職場での人間関係が良ければ、仕事もはかどり、助け合いながら仕事ができるでしょう。それがうまくいかないと、苦しむことになります。
生活の中のさまざまな不調の原因は、人の高慢と、人を貶めることによることが多いのです。
お互いに、相手よりも、自分の方が偉いと思う心が様々な問題を起こします。
キリストが仕えるためにご自分をささげられたように、わたしたちも仕える者であるなら、どこにいても、祝福を喜ぶことができるのです。
主イエスは私たちに、愛することと仕えることを示しておられます。
仕えることは愛することです。
また、私たちは主イエスの謙遜なお姿から学ぶことができます。
主はご自分で「仕えるために来た」と言われました。神の子がその栄誉を捨て、僕の姿をとられました。
主イエスは十字架に架けられる週の日曜日に、エルサレムへ入城されました。人々は、木の枝を手にして、上着を道に敷いて、ホサナと叫び、主をお迎えしました。その時主イエスは、この世の王が乗るような立派な馬に乗って入城されませんでした。子ロバに乗っておられました。
ロバは背が低く、大人が乗ると見た目にもバランスが悪く、見栄えはしません。それでも主は子ロバに乗られました。
ゼカリヤ書には、メシアはロバに乗って来ると預言されています。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」
(ゼカリヤ9:9)
主が子ロバに乗られたのは、主イエスこそ旧約聖書で約束されたメシアであることを表すため、そして、謙遜という姿勢を示すためでした。
弟子たちは、このことについて最初は理解できませんでしたが、主の十字架の後、ゼカリヤの預言が成就したことを思い出しました。
仕えることを心に持つことは、主の謙遜さを学ぶことから始まります。
主イエスのお姿は私たちの手本なのです。
互いに仕え合うことを日々学びましょう。その結果は麗しい喜びの結果となるでしょう。
私たちには、神が与えてくださった賜物があります。御言葉には、「それぞれ、賜物を授かっているのですから」とあります。みながそれぞれ賜物を神から恵みによって授けられているのです。賜物をいただいていない人はいません。
それは、皆が「恵みの善い管理者」として用いられるためです。それぞれがいただいている神の賜物を生かして、互いに仕え合いなさいと教えています。
つまり、賜物は自分で得たものではなく、神からの贈り物で、自分のためではなく、仕えるために与えられたのです。
語る者は神の言葉を語り、奉仕をする人は神がお与えになった力に応じて奉仕する、様々な方法で仕え合うことができるのです。
賜物が自分の力で得られたと考えるなら、やがて高慢さにつながるかもしれません。賜物は神からのgiftです。
与えられている賜物を感謝し、祈りの内にそれを互いの為に使うなら、ますます用いられることになります。
賜物は様々です。人と比較するものではなく、互いの為に用いられるのです。
その結果、神が栄光を受けられるのです。
私たちは神の栄光を表すために救われました。賜物を互いのために生かすことが栄光を表すことに繋がります。
祈りの中に自分に与えられた賜物を生かし、用いられるならこれほど素晴らしいことはありません。
神と人に仕えることに躊躇はいりません。主イエスのお姿を仰ぎ、主の御言葉を聞き、御心を確信するなら、主の導きのままに進むことができます。
私たち一人一人に与えられている賜物を磨きましょう。主イエスは私たち一人一人を愛し、注目し、期待しておられることをあらためて覚えましょう。

今週のみことば
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
Tペトロの手紙4章10節



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