阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年11月21日
「からし種一粒ほどの信仰」
ルカによる福音書17章5-6節

 きょうも主イエスの愛と守りの中に、礼拝をささげられ心から感謝します。
今年も早いもので、11月第3週を迎え、28日からアドベントに入ります。主イエスのご降誕を待ち望み、さまざまな備えをする時です。
主イエスがお生まれになったことを初臨といいますが、再び来られることを再臨と言います。私たちは初臨と再臨の間にこの世に生を受け、尊い十字架によって贖われ、神の子とされたことをしっかりと覚える時です。
「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ9:28)
私たち、日々、主を待ち望む者でありたいと祈るのです。
さて、ある時弟子たちが、主イエスに「わたしどもの信仰を増してください」(ルカ17:5)とお願いしました。
弟子たちは何か思うところがあって、自分たちの信仰が小さいと思ったのでしょう。
私たちも、自分の信仰について考えることが良くあるのではないでしょうか。信仰があるのかないのか、自問することがあるかもしれません。
主イエスが教えておられる信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
信仰とは、天地万物を創造された唯一の神を信じる事、その独り子が罪の贖いの為に十字架に架けられ、死んで甦られたこと、神の言葉は生きていて、私たちの魂の糧となり、その御言葉の成就を固く信じることです。
聖書の御言葉と信仰は切り離せません。御言葉を信じて待ち望むことが信仰に繋がります。
祈りつつ、神の言葉を間違いなく理解し、受け入れていくなら、信仰は成長します。信仰によって歩むことができるのです。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6)。
神は信仰を持ち、ご自身に近づく者を喜んでくださいます。
私たちは御言葉を信じているでしょうか。日々の生活の中に重荷や悩みを持つことも多いのです。
主イエスは、「明日(あす)のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と教えておられます。
天の父は私たちが必要とするものを添えて与えてくださるから心配してはいけないと教えておられるのです。
その約束を信じることが信仰です。
主イエスは、弟子たちの「信仰を増してください」という願いに対して、「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:6)とお答えになりました。
ここで注意しなければいけないのは、信仰とは何でも自分の思うとおりになることではないということです。
主イエスがそのように言われたのだから、信仰があれば何でもできるというのとは違います。
からし種は、ゴマ粒よりもっと小さい種です。小さくて軽くて、注意していても、あっという間にどこかに飛んで行ってしまうような種です。
そのような小さな種一粒の信仰があればと、教えておられるのです。
信仰は、強い、弱い、多い、少ないではなく、あるかないかなのです。
弟子たちがガリラヤ湖で突風に襲われた時、主イエスは舟の艫で寝ておられました。弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師であったのに、あまりの風と波に恐怖を覚え、「私たちがおぼれても構わないのですか」と主イエスに言うほどでした。その時、主は風と波を叱られて、湖はなぎになりました。
主イエスは弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカ8:25)と言われたのです。
主イエスが一緒に舟に乗っておられるのに、突然の大嵐におびえて、慌てふためきました。主は、弟子たちの信仰を嘆かれたのです。
もし、弟子たちに主イエスが共におられ、しかも主は眠っておられる、この突然の事態は必ず治まり、無事に目的地に到着できると信じ切っていたら、慌てふためくことはなかったでしょう。
私たちの日常にも大嵐が突然襲うようなことがあります。あまりの状況の悪さに慌てふためき、「主よ、私が大変な状況の中にあるのに、助けて下さらないのですか」と、叫ぶようなことがあるかもしれません。
主イエスは、わたしたちにも、「あなたの信仰はどこにあるのか」と言われます。
間もなくアドベントを迎えますが、主のご降誕の前に、祭司ザカリヤの妻エリサベトが高齢にもかかわらず身籠りました。
やがて生まれるのはバプテスマのヨハネです。
主イエスの母になるマリアは、天使ガブリエルから受胎告知を受け、それを受け入れました。
婚約していたとはいえ、未婚のマリアにすれば神の子の母になるのは晴天の霹靂であったことでしょう。
しかし、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と告白しました。
マリアの信仰です。マリアはユダのザカリアの家に向かいました。マリアが挨拶すると、エリサベトも胎内の子供も喜びました。体内の子は喜んで踊ったと、エリサベトは語りました。
そして、「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)と告白しました。
主の御言葉、主の約束がどれほど理解を超えるものであろうと、信じる者は幸いであり、主の栄光を見ることができるのです。
やがて、エリサベトは、バプテスマのヨハネを産み、ヨハネはイエス・キリストの道備えとして用いられました。
主イエスはからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に命令すれば海に中に根を下ろすと教えておられます。
それは、人間的な途方もない奇跡の為に用いられるということではありません。信仰は神の御心に従って実現に至るのです。神の御心に沿った信仰は大きな力になります。
信仰は、あるかないかです。信仰があることを試されるのは、順調な生活のなかではありません。嵐のような非常事態のなかで信仰は明らかになります。
ルカ21章1節以下にやもめが献金をささげたという記事が記されています。
主イエスは目をあげて金持ちたちが献金箱にお金を投げ入れているのをご覧なりました。貧しいやもめがレプトン銅貨2枚をそっとささげるのを目に留められました。金持ちたちは大金をささげても、暮らしに困るわけではありません。しかし、やもめにとってレプトン2枚は生活費すべてだったのです。
主イエスがご覧になったのは、やもめの信仰です。
神は貧しい者を省み、必要すべてを備えられるという信仰と、神に対する愛、献身をご覧になりました。
詩編146編9節には、「主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめをささえられる」(口語訳)とあります。寄留の他国人と、孤児、やもめは生活手段をもたない生活弱者でした。神はこのような者たちを愛し、守り、支えられるのです。やもめはその信仰によって支えられていたのです。やもめはどうしても、神に対する信仰と感謝を表したかったのでしょう。
困窮の時、弱っている時、試練の時、わたしたちは自分の信仰を見直すことができます。
信仰があるのかないのかはっきりするのです。
主は熱心であることを求めておられます。生ぬるいのではなく。熱いか冷たいかであれと教えておられます。熱い信仰に生きましょう。

今週のみことば
「信仰がなければ、神によろこばれることはできません。」
ヘブライの信徒への手紙11章6節


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