阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年11月28日
* アドベント第1週 *
「目を覚ましていなさい」
マルコによる福音書13章32-36節

 アドベント第一週を迎えました。ご降誕を待ち望みつつ、礼拝をささげましょう。
私たちが主のご降誕と、再臨の間に生を受け、救われた者であることは良く知っていることです。
まことの救い主を知らず、罪の中に滅びに向かっていく者を、主イエスは見いだされ、十字架の尊い血潮によって救って下さいました。
主の血汐によって聖められ、「あなたは、わが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43:4口語訳)と、受け入れてくださいました。
新改訳聖書では、あなたは「値高く、」と訳されています。
主の目に価値のある尊い者として受け入れられました。これは、十字架の贖いによるもので、私たちの力や努力によるものではありません。 私たちをありのままの姿で受け入れてくださる神の愛を覚えて、応答していく生き方が、真の神を信じる者の生き方です。
主イエスは弟子たちに、御自分が天に帰られたのち、また迎えに来られると何度も教えられました。
マルコ13章34節以下には、家を後にして旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて行くようなものとあります。
「それは、ちょうど家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(マルコ13:34)とあります。
家を出る人とは、主イエスです。僕たちとは、私たちのことです。
また、門番の役割がありますが、門番には僕たちが一人ずつ交代で立ったと思われます。
僕たちにはそれぞれ役割が割り当てられました。主人の留守中、主人の働きが滞らないためでした。
主人がいつ帰って来るかは、誰も知りません。天使も主イエスさえご存じありません。ただ天の父だけが知っておられるのです。
マタイによる福音書にも、目を覚ましていなさいと教えられています。
人の子は思いがけない時に来られると教えています。
マタイによる福音書には、忠実な僕と悪い僕の姿が対照的に記されています。
一方は、忠実で賢い僕です。主人が旅に出ている間、主人の言いつけを守り、「時間とおり、他の僕に食事を与える」とあります。
帰って来た主人はそれを見て、財産すべてを管理させるに違いありません。
一方、主人の帰りは遅いと考えて、僕仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている僕はどうでしょうか。
僕の主人は突然帰って来てその様を見て、彼は厳罰に処されたのです。後悔してもどうにもなりません。
どちらの教えも、主人の留守中、主人の言いつけを守り、忠実であることが求められています。
私たちは、主人は必ず帰ってくるということを忘れてはなりません。
主イエスは十字架の前、最後の食事の席で弟子たちに「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:3)と約束されました。
このような約束をいただいているのですから、主イエスは私たちを迎えるために来られるということを決して忘れてはなりません。
目を覚ましているとは、忘れることなく主イエスを待望することです。
主が来られることをはっきりと心に覚えているなら明確な信仰に生きることができるのです。
主人の帰りが遅いと考えた僕は、勝手なことを始めました。
ここで考えさせられるのは、主人に仕える動機です。
主人に求められている忠実さはどこから来るのでしょうか。
主人を信頼し、愛し、敬う心があれば、忠実に仕えることができるのです。
主人を信じることなく、自分の利益だけを考え、事務的な冷たい心で仕える者は、主人が留守の間に勝手ができるのです。
目を覚ましているとは、主人がいつ帰って来ても良いように、主人の言いつけを守り続けることです。
主イエスが弟子たちに大切なことを教えておられます。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34−35)
主イエスが帰ってこられるまで、「互いに愛し合う」ことに熱心であることが求められています。
主イエスの十字架の愛をいつも心に覚え、自分がいかに愛されているかを自覚できる時、聖霊は心の内から溢れてくださり、愛に満たしてくださいます。愛された者は愛することができます。アガペーの愛です。
愛し合うところに主イエスの姿を見ることができます。
「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:4)とあります。
たがいに心にかけることが教えられています。隣人を心にかけて祈ること、これは愛の奉仕です。
主人の留守中、光の子として歩むことは、大切なことです。
「あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。― 光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」
(エフェソ5:8、9)
そのように教えられています。かつては不忠実な僕だったかもしれません。しかし、光として来られた主イエスを信じた時から変えられたのです。
闇から驚くべき救いの光の中に招き入れられて、永遠の命の道を歩むようにされました。主イエスに常に忠実でありたいという心の願いを持つ者になりました。
主に愛されていることのありがたさをいつも覚えることができます。
主の御言葉を愛します。そして、信じます。
主の為に用いられるなら、これほどうれしいことはありません。
主の僕として光の中を歩みます。
光の子とされた者は、主イエスご自身を伝えます。主イエスの救いと愛をほめたたえます。
主イエスは、「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:35−37)と、教えておられます。
主イエスは、弟子たちに教えていることは、すべての人に対する教えだと言われました。
アドベン第一週に、眠っているようなことはないだろうかと、自分の信仰を省みられるのは幸いです。
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりも、まず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(Tペトロ4:7,8)
ペトロは、主イエスがもう間もなく来られると信じていました。ですから、主イエスの来臨に備えて、どのように生きるのかを教えました。
この御言葉も主が来られるまで、目を覚まして主に従いながら生きることを教えています。
何よりも愛し合うこと、そして愛は罪を覆う、すなわち許し合うことができると教えています。
主イエスのご降誕を待ちつつ、救いにあずかった僕として、目を覚まして主イエスの再臨を待ち望みましょう。


今週のみことば
「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目をさましていなさい。」
マルコによる福音書13章37節


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