阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年12月5日
第1聖日礼拝
(アドベント第2週)

「光の子として歩む」
エフェソの信徒への手紙5章6-10節

 アドベント第二週を迎えました。クリスマスを迎えるにあたって、心を備え、礼拝をささげましょう。
 今年も、新型コロナウイルス感染情報に気を使わなければならなかったのですが、このところオミクロン株が入り込んで、水際で防げるかが課題になっています。感染された方がもうすでに日本にも入国されているそうですので、なんとか感染が拡がらない様に祈りたいと思います。
 主イエスのご降誕を待つには、心を備える必要があります。先週は目を覚ましていることが示されました。
キリストがいつ来られても良いように、良い僕であるよう教えられました。
 さらに、私たちはキリストの尊い十字架の血汐で罪許され、救われた者であることを明確に確認したいと思います。
主イエスに救われた者は、光として歩むと、御言葉にあります。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」(エフェソ5:8)
かつては罪の闇の中にあった者が、イエス・キリストに救われて光となったと宣言しています。
「光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)と続けられて、主イエスを信じた者は光の子として歩む者なのです。
アドベントになると、一週ごとにローソクを一本ずつ点灯します。これは、世の光として来られた主イエスを表し、クリスマスを待つ心のあらわれです。
また、最近は少なくなりましたが、クリスマスが近づくと一般の家庭でも美しいイルミネーションを飾るのを見かけます。キリストに対する信仰によるものではなく、単なる装飾であっても、私たちは、キリストは、命の光として来てくださったことを覚えることができます。
主イエスを救い主として信じ、心にお迎えすると、私たちは造り変えられます
主イエスを信じる以前の生き方ではなく、キリストの光として生きるのことが、喜びとなります。
主イエスはご自分の事を、「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』」(ヨハネ8:12)と言われました。
新共同訳聖書では、イエスは再び言われたと、訳されていますが、強い意味があって、「断言された」というように理解することができます。
ご自分が世の光であり、信じる者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つと、断言されたのです。
主イエスは神の子であり、世の光として来てくださいました。このキリストを信じる者は、光とされ、闇の中を歩くことはないのです。
命の光を持つ者とは、主イエスにより罪から解放され、赦され、永遠の命を持つ者です。
主は「わたしに従う者は」と、言われました。ユダヤ人たちは主イエスがキリストであることを認めようとはしませんでした。頑なな心を悔い改めませんでした。ファリサイ派の人々も、祭司長や律法学者たちも、頑なに形式的な厳格な規則を守り、それを守り通すことに固執しました。
霊的な目が見えていませんでした。闇の中を歩んでいるのに、それすら気が付かない有様でした。真の神を信じていると言いながら、その御心とは遠い生き方だったのです。
神と、その御心を退けることが闇の中を歩むことであり、そこに救いの手が述べられていても、拒みました。光がそこにあるのに、罪の解決があるのに、永遠の命が差し出されているのに、拒み、退けることこそ、闇なのです。
私たちは、命の光である救い主を信じ、心にお迎えする恵みにあずかりました。真の光を持つ者とされました。
主は、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われました。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)と、教えておられます。
世の光である私たちが、光をかかげることで、天の父があがめられるとは、なんと素晴らしいことかと思います。
ところで、主イエスが言われている立派な行いとはどのような行いでしょうか。
御言葉に回答があります。
「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:31―32)とあります。このように変えられるのは私たちの内におられる聖霊の業です。古い性質を捨て去り、主イエスが着せてくださった新しい命に生きるなら、このように造り変えられるのです。
「神に倣う者」(エフェソ5:1)は、光を掲げます。
キリストのお姿に変えられたのです。また、日々変えられていきます。
互いに愛し合い、許し合う姿は世に対して命の光の証しとなります。
光が生み出すものは、「あらゆる善意と正義と真実」(エフェソ5:9)です。
光の実が見えるような生き方が証しです。
御霊の結ぶ実は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ5:22,23)。
光の実は、当然御霊の実と同じ実を結ぶのです。
御言葉は「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(エフェソ5:6)と教えています。
むなしい言葉とは、罪の中にある者の言い訳の言葉です。光の子となった者は、罪の世に引き戻されてはなりません。
私たちの内におられる聖霊を悲しませてはいけないのです。
サタンは、できるなら光の子を光から引き離そうと働きかけます。
ある時は光の天使を装い、やさしく働きかけて罪に引き戻そうとし、ある時は吠え猛る獅子のように不安を与えて脅(おびや)かします。
陥(おとしい)れられない様に、目を覚まして祈らなければなりません。
さらに、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)とあります。
光の子は何が主に喜ばれるのかを求めながら生きます。
エフェソ5:17には、「だから、無分別な者とならず、主の御心がなんであるかを悟りなさい」ともあります。
吟味することと、分別することには共通点があります。吟味とは、良いものなのか悪いものなのか、よくよく調べて判断することです。
分別とは、良いものと悪いものを仕訳することです。これは主に喜ばれるかどうかを、よく考えて判断するということです。
吟味して分別するのです。
光の子は主の御心に沿ったことかそうでないのかを吟味します。
何が主が喜ばれることなのかをいつも考えて行動していくと、自然にそれを選び取るようになります。聖霊が導いて下さるのです。
そのためには、常に祈ることです。祈ることなしに、御心はわかりません。
主イエスの光が私たちの内から輝き、私たちが光として世を照らす時、主の栄光は表されます。
主イエスは十字架の前に、ユダヤ人たちに、「光は、いましばらくあなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12:35,36)と勧めました。
光の子とされた者は、「光のあるうちに、光の子となるために、光を信じなさい」と、世に向かい叫びつづけたいと、切に願い祈ります。
アドベントの最中、光である救い主を待ち望み、主こそ真の光、命の光と叫び続けましょう。

今週のみことば
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
エフェソの信徒への手紙5章8節


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