阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年12月12日
「あけぼのの光」
ルカによる福音書1章76-80節

 アドベント第三週を迎えました。来週はいよいよクリスマス礼拝です。コロナウイルス感染防止の為に、ファミリークリスマスやさまざまな企画でのお祝いは今年も見送りました。
そのような中、私たちは静まって御子の誕生を待ち望み、礼拝をささげるという大切なことを改めて覚えることができました。
心静かにクリスマスを迎え、キリストを待ち望みましょう。
主イエスのご降誕の前に、バプテスマのヨハネが誕生しました。ヨハネの両親は、ザカリアとエリサベトと言い、ザカリアは祭司であり、エリザベトは、アロン家の出身でした。アロンは祭司の家系です。二人とも、神の前に正しく敬虔な信仰を持っていました。
その信仰の姿勢は、「非のうちどころがなかった」(ルカ1:6)とあります。
しかし、ザカリアとエリザベトには、子供がありませんでした。
ある日、聖所での務め中、ザカリアの許に天使があらわれ、エリサベトに男の子が与えられると告げました。しかも、名前をヨハネと名付けるようにとも告げたのです。
その子の役目は、イスラエルの民を神に立ち帰らせることであると、伝えました。救い主に準備のできた民を用意することが使命であると示しました。
ザカリアは天使に自分たち夫婦は高齢であり、いったい何によってそのことを知ることができるのかと、問いました。
天使ガブリエルは、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのであるが、ザカリアは時が来れば実現するこの知らせを信じなかったので、実現するときまで、口がきけなくなると伝えました。
ザカリアは天使ガブリエルが伝えた通り、聖所から出てきたとき、口を利くことができず、手振りで示すだけでした。
やがて、天使の告げた通り、妻エリサベトは懐妊しました。
ザカリアは口を利くことができないばかりではなく、ヨハネが誕生した時に、人々に子の名前について手振りで聞かれたたとあります。耳も聞こえなかったようです。
外からの声や音が聞こえず、言葉も出ないとは、大変不自由なことですが、ザカリアはこの期間、ひたすら静まって神とだけ交わることができました。
天使を通して神がお語りになった言葉を素直に受け入れることができなかったことを悔い改め、神が与えてくれた子の使命を考えながら誕生を待ちました。
エリサベトは月が満ちて男の子を出産しました。親戚や近所の人々は、喜び合い、八日目に割礼を施すために集まりました。
子供の名前を父と同じザカリアと名付けようとしたのですが、母エリサベトは、「ヨハネとしなければなりません」と主張しました。
親戚にもだれもヨハネという名の人はおらず、戸惑った人々が父であるザカリアにこの名を問うと、「この子の名は、ヨハネ」と、字を書く板に記しました。
主の母となったマリアが、天使から主の母になることを告げられた時、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と告白して信じて従ったように、この時ザカリアも信仰の告白をすることができました。
ザカリアは、たちまち口が開き、神を賛美し始めました。
数か月間の沈黙の間、神とひたすら交わり、子の誕生を待ちわびたザカリアは確かに変えられました。
祭司とはいえ、神の御言葉を悟らず、受け入れることができなかったのですが、御言葉を無条件に信じる者にしていただくことができました。
ザカリアは男の子が生まれたら、自分の後を継ぐ祭司にしたかったかもしれません。後を継ぐ子がいなければ祭司としての家系が途絶えてしまう事になります。しかし神がザカリアの子にお与えになった使命は祭司ではありませんでした。
ザカリアは、幼子がメシアの道備えとなることを受け入れました。
ザカリアは、ヨハネが「いと高き方の預言者と呼ばれる」(ルカ1:76)と語りました。預言者としてのヨハネは、メシアに先立ち、その道を整えるという働きに召されました。
それは、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(ルカ1:77)という大切な働きでした。
ヨハネが遣わされるのは、神ですが、なぜ神はヨハネを遣わされたのでしょうか。また、救い主はなぜ世にお生まれになったのでしょうか。
「これは我らの神の憐みの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。(ルカ1:78,79)
ひとえに神の「憐れみの心」によるのです。神は罪の暗闇に座す民を憐れまれ、救い主を遣わされ、その前に道備えとしてヨハネを遣わされました。
暗闇に座すとは、罪の中に座る、居続けることです。罪を罪と知らず、罪の報いも知らず、滅びに向かうことを指しています。
人は不幸の原因を環境や条件が悪いからと考えます。しかし、本当は心の中にある、自己中心が招くものであり、真の神を受け入れないことが罪の結果として表れているのです。
真の神は、善い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる方です。罰をお与えになるのではありません。ただ悔い改めない頑なな自己中心の結果が自分にあらわれてしまうのです。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6:23)
あらためてこの御言葉を厳粛に受け入れたいと思います。
憐みにより、「高い所からあけぼのの光がわれらを訪れ」(ルカ1:78)とあります。
天から、神の座からあけぼのの光として、救い主が来られる。すべての民の救いの光が来られるのです。
私たちが光を求めたのではなく、あけぼのの光は私たちを訪れてくださいました。この光こそ救い主キリストです。救い主が私たちを見出し、光の中に招き入れてくださいました。
そのまま暗闇にいたら、滅びるよりほかない者たちを救いの光の中に導いて下さいました。
バプテスマのヨハネは自分の使命をよく知っていました。時が来て、キリストが公の生涯に入られるに先立ち、荒野で叫ぶ者の声として、人々に悔い改めを迫り、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けました。
「暗闇と死の陰に座している者たち」は、あけぼのの光を受け入れることによって、永遠の救いをいただくことができました。
キリストの十字架の贖いによって、「平和の道」を歩む者にしていただくことができました。
日々の歩みに困難はあります。今は新型コロナウイルス感染防止の為に、さまざまなことが自粛され、また、実際に罹患されて苦しむ方々は多くありました。命を失う方もたくさんおられました。
コロナ関係で失職される方もあるのです。
どこに平和の道があるかと考えるかもしれません。しかし、キリストこそが平和の道なのです。この方を受け入れた者は、死から命に移され、キリストの平安を歩むのです。さまざまな戦いに勝利することができます。いかなることがあっても、キリストの平和を失うことはありません。
バプテスマのヨハネは神の使命を全うしました。
私たちも、あけぼのの光である救い主と、その救いを叫ぶ者として選ばれています。救い主がお生まれ下さったクリスマスにこそ、その救いと永遠の命を世に向かい叫びたいのです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)
預言者イザヤが見た光は、800年後に救い主キリストの誕生として成就したのです。

今週のみことば
「この憐みによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
 我らの歩みを平和の道に導く。」
 ルカによる福音書1章78-79節


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