阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2021年12月26日
年末感謝礼拝
「主をたたえよ」
詩編103編1-5節

 2021年最後の主の日を迎えました。2021年もあと数日で終わります。今年もさまざまなことがありました。
コロナウイルスの感染は下火になっていますが、オミクロン株という新型がはびこり、大変感染力が強いそうですので油断はできません。
閉塞感をもつようなこともある生活でしたが、今日まで守られたことを感謝します。
私たちは、天の父とどのように向き合っているかを考えることは大切なことです。天の父との個人的な関係です。
天の父は、恵み深い、愛の父です。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる父です。
太陽も、雨も人が生きる上で必要です。日照り続きでは作物は育たず、人も生きることはできません。太陽がなくても困ります。日照不足という言葉がありますが、収穫できなくなってしまいます。
人は、太陽も雨も恵みであることを知っているでしょうか。人には天候を自由にすることはできません。全能の父の御手にあることです。
天の父は私たちを愛して、恵みにより、必要すべてを備えてくださることを感謝します。
父の恵みを当たり前とは思わないで、心から感謝して受け取る信仰を持ちたいと思います。
詩編103編はダビデの詩です。ダビデは子供の頃は父の家で羊の番をしていました。ペリシテとの戦いの場にいる兄たちを見舞ったとき、ペリシテの大男で戦士のゴリアトが、イスラエルの神を侮辱するのを見て、戦いを挑みました。
重装備ではなく石投げと五つの石だけで戦いましたが、見事ゴリアトを倒しました。
それから、サウル王に仕えるようになりましたが、だんだんサウルに疎んじられ、命さえ狙われるようになりました。ダビデの人気が高く、だれもがダビデをほめたたえたからです。
ダビデはサウル王のもとから逃げ出すことになりました。
サウル王の追手から逃れるために本当につらい思いをしました。
ダビデは、人間とはどのようなものかを知っていました。神の被造物であること、アダムが塵から造られたように、塵にすぎない事、人の生涯は草のよう、野の花のよう。風がその上に吹けば、消え失せ、その後、生えていたところを知る者もなくなると、表現しました。
塵にすぎない、野の花のようにはかないものにすぎないのに、「父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる」
(詩編103:13)と告白しています。
ダビデは逃亡生活の苦しさの中にも、神の恵みを忘れることはありませんでした。
神が恵みとして何を与えてくださったのかを挙げています。
「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。 慈しみと憐みの冠を授け 長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる」(103:3−5)とうたいました。
罪と病と命について答えを与えています。
人はこの世にある限り、命と病と罪という大きな課題が与えられています。雨や陽が人の力では動かせない様に、人の命は、神が与えられたもので、人が自由に支配することはできません。
人がこの世に生を受けるということを、人が自由にできると思っている人があるかもしれません。しかし、神の御許しがなければ、できないことなのです。命は神のものです。
また、召されることもそうです。神がその時を定められ、人は神に召されるのです。命を与えられたからには、しっかりと生きていくのです。
人は罪の為に苦しまなければなりませんでした。
自分中心という罪が魂を支配し、的外れな生き方や、道を外して生きなければなりませんでした。救いはありませんでした。
サウル王は、ダビデが戦いに強く、凱旋する時に、人々がほめたたえることを苦々しく思い、嫉妬しました。そして、殺意にかり立てられました。罪に支配された心は、罪の支払う報酬を受けることになります。
サウルに欠けていたことは、神との個人的な良い関係を持つことがなかったことです。いつも自分の心を満たすことのみ求めて、神ご自身とその御心を求めることができませんでした。残念なことです。
さて、天の父が用意してくださるのは、「慈しみとあわれみの冠」だと4節には続けられています。
冠とは高貴な人が頭に乗せるものです。聖書では、神が与えてくださる義の冠が備えられていると教えています。冠は神の子のしるしです。
私たちの頭には神の慈しみとあわれみの冠が輝いているのです。
御言葉は、生きている限り良いものに満ちたらせてくださると教えています。
私たちにとって良いものとはなんでしょうか。もちろん生きてくうえで必要なものと考えることができますが、主イエスはそれらの物は添えて与えられるから、心配してはいけないと教えてくださいました。
天の父の下さる良いものとは、御子キリストであり、キリストの十字架の贖いにより受けた永遠の救い、永遠の命です。
私たちは生きている限り、天の父の下さる良いもので満ち溢れ、その全生涯が祝福であることを感謝します。
旧約聖書には、鷲についての言及があります。申命記32章11節には、「鷲が巣を揺り動かし 雛の上を飛びかけり 羽を広げて捕らえ 翼に乗せて運ぶように・・・」という御言葉があります。
鷲が敵から巣にいる雛を守るために飛びかけり、羽を広げて雛を乗せて運ぶという意味の御言葉です。
鷲が本当に翼に雛を乗せたのかどうかはわかりません。詩的な表現であると思いますが、私たちは日々、父なる神の力強い翼に守られ、神にの翼によって運ばれる、導かれていることは何にも勝る幸いな事実です。
鷲の持っている強さ、若さに私たちもあずかれることを感謝します。
2021年も終わろうとしています。
コロナウイルス感染防止の為にYouTubeで礼拝をささげる時期も多くありました
さまざまな集会、GGCもまだ再開ができません。
しかし、私たちは決して失望しません。天の父は良いものだけを下さり、これからも最善をなして下さるからです。
私たちは弱くても、天の父はこれ以上ないほどの愛をもって支えてくださいます。
私たちは、自分の魂に向かって、「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編103:1,2)と語りかけ、主が良くしてくださったことを何一つとして忘れてはならないと心に覚えたいと思います。
主をたたえる、賛美することは神の子の喜びです。
私たちはいつどのように神を賛美しているでしょうか。気分の良い時や、物事が順調に進んでいるとき、気分が良い時に賛美するようなことはないでしょうか。
賛美には祈りの心や、感謝、信仰が伴います。
神は私たちの賛美を喜んでくださいます。なぜなら、私たちが神によって創造された目的は、神を賛美することだからです。
神を賛美することができるのは、キリストによって救われ、神の子とされた者です。
「後の世代のために このことは書き記さねばならない。『主を賛美するために民は創造された』(詩編102:19)
主の良くしてくださったことを感謝し、さらに神に近づき、ほめたたえましょう。
2022年も主は素晴らしいことを備えていてくださることを信じます。
神の臨在の中に、賛美をささげ、感謝をささげ、さらに主ご自身を待ち望みましょう。

今週のみことば
「感謝の歌をうたって主の門に進み
 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
 感謝をささげ、御名をたたえよ。」
詩編100編4節



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