阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年1月2日
新年礼拝
「イエスは世の光」
ヨハネ8章12節

 新しい年を迎えることができました。あけましておめでとうございます。会堂に集まり、真の神を礼拝できることを心から感謝します。
2022年は、エフェソ5章8節の御言葉が与えられ、昨日の元旦はYouTube礼拝でしたが、しっかりと御言葉を心に受け止めることができました。
主イエスは私たちがわかりやすいように、御自分の事を何かにたとえて表しておられます。
「わたしは良い羊飼い」、「わたしはぶどうの木」、「わたしは命のパン」
といったように、「わたしは世の光」と、証しされました。
主イエスは、エルサレムへ仮庵の祭りの為に行かれた時、様々なことをお教えになりました。
仮庵の祭りとは、イスラエルの民がエジプトから逃れ、荒野を旅していた時、天幕に住んだことを記念して、簡単な家を作り、仮住まいするという祭りです。秋の収穫祭りでもありました。
主イエスの時代には、祭りの間シロアムの池から水を汲み、神殿に運んで祭壇に注ぐこともされていました。
また、神殿では、大きな4本の燭台に、明かりが灯されました。この燭台の光はエルサレムの町を照らしました。
神が、出エジプトした民を、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いたことを記念するためでした。
主イエスはその祭りの最後の日に、大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37、38)と言われました。
これは、主イエスを信じた人が受けようとしている聖霊のことを教えられたのです。
主イエスはかつて、サマリヤのシカルの井戸で、水を汲みに来た婦人に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13,14)と教えておられます。
主イエスはこのように、魂の渇きを覚える者は、主イエスを信じて永遠の命に至る水を飲むようにと勧められ、そして、御自分は「世の光」であることを証しされました。
神殿に輝く明かりも、いつか燃え尽きてしまいます。しかし、主イエスというまことの光は永遠の光です。
主イエスは「わたしは世の光」とはっきりと宣言されました。
ファリサイ派の人々は、このように主イエスが語られても、受け入れませんでした。主イエスの証しは真実ではないと言い切りました。
主イエスは、御自分の証しは真実である。ご自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか知っているからとお答えになりました。
主イエスはまことの光としてこの世に来られ、そして、人間の罪の贖いとなって十字架で命を捨ててくださいました。
三日目に復活され、天に上げられて、神の右に着座されたお方です。
神であられるのに、人の姿をとってこの世に来られ、十字架へと進んでくださいました。どこからきてどこへ行くのか知っておられたのです。
主イエスは暗闇に輝くまことの光です。エフェソ5章8節の御言葉には、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とあります。
以前には暗闇だったとは、罪によって心の目が閉ざされて暗闇を歩いていたと考えることができます。
さらに、最も深い闇は、この世が、まことの光である主イエスを理解せず、受け入れないことと考えられるのです。
人々の頑なさ、頑として主イエスを認めようとしない所が闇なのです。
ヨハネによる福音書9章には、生まれながらに目の見えない人が癒されたということが記されています。
主イエスの弟子たちは、主に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:1,2)と質問しました。
当時、誰かの罪の報いとして、心身に不調があらわれると考えられていたのです。今でも、因果応報という考えがあります。
主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)とお答えになりました。
弟子たちはこの答えに、驚いたことでしょう。まったく新しい教えだからです。
この人の不幸の原因は、誰かの罪の為ではなく、「神の御業が現れるため」であると教えてくださいました。希望にあふれる御言葉です。
主イエスは唾で泥をこねて、彼の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと教えました。その通りにすると、目は開いたのです。
人々はこの人が癒されたことを不思議に思い、「どうして目はあいたのか」と尋ねました。
この人は、イエスという人が泥を作って目に塗り、シロアムへ行って洗うようにと言われたので、その通りにすると目があいたと、そのまま証ししました。
ファリサイ派の所へ連れていかれてもう一度同じように証ししましたが、ファリサイ派は、彼をののしり、会堂から追い出しました。
目が開かれた人は、「神は罪人の願うことは聞かれないが、だれでも神を畏れ、その御心を行う者の願うことは聞いて下さる」。「世が始まってこのかた、生まれつきの盲人の目を開けた人のことを聞いたことはありません。あの方が神から来られたのでなければ、このようなことはできないはずです」と証言しました。
この人が会堂から追い出されたことを聞いて、主イエスは会ってくださいました。そして、「人の子を信じるか」と、聞いて下さいました。
「その方を信じたい」と告げると、主イエスは「あなたはもうその人を見ている」と言われました。
彼は「主よ、信じます」と叫び、膝まずいて礼拝しました。
目が見えず、闇の中を歩んでいたこの人は、目が開かれ光を見ることができました。
主イエスというまことの光を信じて受け入れ、新しい人生が始まりました。もう、闇の内を歩むことはなく、命の光を持つことができたのです。
ファリサイ派は、まことの光に照らされることをしませんでした。光は人の姿を明らかにします。外見だけではなく、心の内を明らかにします。
自分自身の姿を知らされます。今まで気が付かなかった醜さや、弱さが明らかにされます。光は罪を教えます。
主イエスは「丈夫な人に医者はいらない」と言われました。「私は罪人を招いて救うために来た」とも言われました。
主イエスは、罪多く、弱く、醜い心を持つ者を愛し、そのまま受け入れてくださいました。
生まれながらに目が見えなかった人が、新しくされたように、誰でも主イエスを救い主として信じる者は、直ちに光の子としていただけるのです。
主イエスの十字架は闇の中を歩む者が救われ、光とされるためでした。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と宣言されました。
主イエスの救いを受け、命の光とされた私たちはどのように歩むのでしょうか。この光を高く掲げて歩みます。
光の道を歩みます。それは命の道であり、喜びの道です。永遠の救いを賛美する道です。
私たちの周囲には、闇の内を歩む多くの人々がいます。私たちは、光の子とされたことを喜び、まことの光である主イエスを証しする日々を送りたいのです。
いつも共におられ、私たちの手を取り導き続けてくださる主イエスを、愛し、その光を輝かせる年といたしましょう。


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